ブリンジ・ヌガグ おまえはもう死んでいる!
うああああっ。
めっちゃめちゃ恐ろしい本を読んでしまった。
『ブリンジ・ヌガグ 食うものをくれ』コリン・ターンブル著
筑摩書房 1974
(原書:1973/The Mountain People)
[ Amazon ] [bk1]
アフリカのイク族。
いわゆる狩猟採集民族。
政府が野生動物の保護を掲げて彼らから狩猟のすべを奪ってしまう。
肉は獲れない、ひでりで畑も水もチョー足りない。
食べ物が枯渇する
人々が死んでいく
裏表紙:
圧倒的な飢えに苦しむ彼らに、かつての勇敢な狩人の面影は跡形もなかったのである。一片の食糧をめぐる争いが彼らの人間性を奪い、家族や社会を形骸とし、あとには生き延びようとする欲望のみ肥大化したばらばらな人間集団を残した。誕生は祝福されず、死ももはや悲しみではない
死ぬものはほっておけ。 慈悲など百害。

読み始めた最初、何かの悪い冗談かと思ってしまった。
混乱している。
この本の内容が飲み込めない。
常軌を逸している。
どこまで真に受けていいのか、書き手の偏見か、価値観の混乱のせいだろうかと思った。西洋人が単に異国の暮らしをすごい色眼鏡で描写しているんだろうかとさえ思った。
が、違う。
事実。 らしい。
とにかく読んでいてこの本の内容が自分の中でうまく消化できない。

難民キャンプの話ではない。
突然、生活の根幹を、食べ物を得るすべを奪われた民族、そこで見聞きした彼らのありさま、実体験の物語。
この現場になぜ文化人類学者は赴いたのか。
本来は何を見に行ったのか。
次々に死んでいくインフォーマント。
飢えで。乾きで。争いで。
死を目前にした枯れ木のような体に、見かねて食べ物、飲み物を与えようとする観察者:筆者。「もう死んでいる者(死ぬことが決まっている者)にやることはない、もったいない!」隙あらば奪い取り逃げ去る縁者や同胞たち。
親と子であっても、そこには食糧や水をめぐる深刻な反目が横たわる。
どこをさすらいどこで息絶えようが気にもされない子どもたち。
息子に食べ物も乞うても無碍に追い払われる母親は、せめて息子の近くで死を迎えたい、と、息子の家の裏でうずくまり息絶える。
配給食糧を受け取りに出た帰り、女が一人欠けるがその夫は「あいつはどこか途中で死んだのだろう、持っていた食べ物の袋を早く取りに行かないと」。探しに出た夫はわずかな妻の身体装飾品だけを金目のものとして持ち帰る。「くそっ、誰かに食べ物は盗まれていた」
争いで銃撃され重傷を負う男。介抱してやろうとすると、駆けつけた妻が「なぜ死なせない!」。息絶えたと見て取るやいなや、そこらじゅうから男の衣服財産何もかもを奪いに人々がよってたかる。
死の前に「昔はこうではなかった」と言い残す老婆。
読み進めていくぶんに、地理的な図は数枚はさんであるが、写真が一枚も登場しない。
本文中、次々と死を迎えていく登場人物が、なにか悪い冗談のカリカチュアのように思えてくる。
が、終盤でやっと気がついたのだが、巻末に10ページほど、キャプション付きで写真が並んでいた。
そうか、この人々が…。
彼が この子が 死んだ。
彼も死んだ。 この老婆も死んだ。 この若人も死んだ。 この少女も死んだ。 この女も売春ができなくなって死んだ。 この兄弟の弟もすべなくこの世から旅立った。

礼儀も美徳も崩壊している、いや、なんらかの理解を超えた形になっているのか? やはり無いのか? 道徳がどうのとうそぶいていられるのは生き死にがかかっていないふやけた場面にしかありえないことなのか?
文化・習慣は環境と人間性質との共進化で編み出される。
環境が激変すると、文化・習慣はいとも簡単にヒトの安寧とは相容れない異様な様相に変貌をとげてしまう。
簡単に言えばすさむ。
「進歩」という美名の元の熾烈な社会変化がもたらす悲劇、さすがにこのブリンジ・ヌガグほどの悲惨さには及ばないが、下記2冊にも現れている。
「ブッシュマンとして生きる」、「呪医の末裔」
ブリンジ・ヌガグは30年ほど前の話だが、「ブッシュマンとして生きる」には定住政策で貧困というくさびを打ち込まれ困窮している現在のグイの人々、「呪医の末裔」には近代化と定住化がもたらす貧困が、ケニアのとある一族の親族関係をすさませていく近代〜現代史が、描かれている。
※ 「ブリンジ・ヌガグ」は残念ながら現在絶版状態。
最寄りの図書館の倉庫に眠っていないかチェックしてみよう。
これ再版してみる価値はあると思う。

※ 「ブリンジ・ヌガグ」 については続きがあります → 「倫理とゲーム理論と災害心理+人食い」
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