うちの仮想本棚+プロフィール
こういうのってさ、プロフィール置いとかないとまずいのかな。
私は
1:高卒のフリーターです。
2:引退した科学ジャーナリストです。
3:たまに大学の授業を公聴しに行っている一般社会人です。
4:図書館の司書です。
5:学会でつまはじきにされた元助教授です。
このうちのどれか一つだけが私に該当します。
上のレッテルそれぞれであなたが私に対して持つ印象と評価がどう変化するか、それによってあなたの他者認識スキルが露呈することがあります。
ま、冗談はそれくらいにして。 

好きな論考をいくつか。
![]() 「アイデンティティを超えて」鄭暎惠 (所収:現代社会学15 『差別と共生の社会学』 岩波書店 1996) 被差別者に向かって「教えてもらわないとわからない」を繰り返すマジョリティ。 「マジョリティ」側でイイコぶる人間が、実は「マイノリティ」という枠の存在に依存しているという事実。 「マイノリティというアイデンティティ」を搾取し消費してあぐらをかく「マジョリティ」。 黙るしかない。マイノリティの代表にされるな。 やつらに向かって〈語らないこと〉こそが「マイノリティ」を主体たらしめうる。 「マイノリティ」が語るべき相手は「マイノリティ」たるにしかず。 ![]() |
![]() 『「女性」から「ジェンダー」へ、そして「ポジショナリティ」へ: フェミニスト人類学の系譜』 中谷文美 (所収:岩波講座文化人類学4「個からする社会展望」 1997 岩波書店) p.228 【ストラザーンによれば、「フェミニズムと人類学の関係を概念化するなら、その(関係の)気まずさを明らかにしないわけにはいかない」。 ここでいう「気まずい」関係とは、まさに人類学とフェミニズム双方の「他者」認識をめぐって発生する。】 社会学(もとい、社会派ぶったハタ迷惑フェミニスト )との交信上の翻訳不可能性、もしくは「あんたにわかるように書くには説明がめっちゃめんどいやん!」という諦観の元を代弁してくれてる。 |
![]() 『記憶する〈場所〉 - 吉野川流域の「首切れ馬」伝説をめぐって』 佐々木高弘 (所収:「記憶する民俗社会」小松和彦編 人文書院 2000年) 贈与関係の社会に貨幣制度が持ち込まれ、そのはざまの”特定の街路”に「首のない馬」が走る。 見事な事例の検出&美しさが目からウロコもの。 ![]() |
![]() 「日本文化と猿」 大貫恵美子著 平凡社選書154 平凡社 1995 構造をふまえた論考は好み。構造を提示されると物語(関係構築解釈)としてわかりやすいし、現代含め各時代の比較もあって、こういう仕事はしっくり腑に落ちて好きだ。 ![]() |
![]() 「日本人の死のかたち 伝統儀礼から靖国まで」 波平恵美子著 朝日選書 朝日新聞社 2004/07 これもいろいろな意味で好きだ。 ![]() この本を読むまで、自分が「誰かに看取られて死ぬ」ことを想像したことがなかったことに気がついた。いつも一人で孤独にどこかで客死するのだと思い込んでいた。 太平洋戦争における死にも多く言及されている。地獄。いつでもそこに屹立しうる地獄。 私は、病院や座敷での死より、戦場での遺棄死のほうが身近に感じる。 私には死は変化ではなく暴力だった。 |
![]() 「思想が育まれる環境認識」 渡邊欣雄 (所収:岩波講座文化人類学2「環境の人類誌」岩波書店 1997年) p.34 【東洋の対概念は二元論に基づく概念とはいいきれない。風水思想には、意味の対立があるかに見える対概念の中に、<気>一元論ともいうべき同意味素があることを、フリードマンなどわずかの人類学者を除いて発見しそこねていた。】 いまどきはこの一元論と二元論の差異にさえも気づかぬままの論考も多いことしきり。 …ん? もしかして単に情報源が海外に偏りすぎているだけ? |

難しいことをよっこすると:
ゴキブリ野郎 下元克己
最終回が忘れられない&最終回が入手不能という…
2004年12月に見た 『マインドゲーム』はめっさ面白かった。
2005年正月現在のマイブームは南海キャンディーズ。きっと今年いいともレギュラーになる!
ツボな本:
| 光る風 共犯幻想: 参照 旅立て!ひらりん 喜劇新思想大系:旧版 |

今の札幌駅は美しいけどなごめない。前のちいさな札幌駅のほうがずっと良かった。

以上は2004年〜2005年バージョンのプロフィール。
2006年バージョンの 『プロフィール』
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)との交信上の翻訳不可能性、もしくは「あんたにわかるように書くには説明がめっちゃめんどいやん!」という諦観の元を代弁してくれてる。






…ん? もしかして単に情報源が海外に偏りすぎているだけ?





