人格障害という命名の暴力と位置関係
…この手の本は下手に一冊一冊読んだりせず、同主題を何冊かまとめて読んだほうが興が深い。
「人格障害とその治療」 町沢静夫著 創元社 2003/09
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「境界性人格障害=BPD(ボーダーライン・パーソナリティー・ディスオーダー) はれものにさわるような毎日をすごしている方々へ」 P.メイソン著 星和書店 2003/04 (原書1998/Stop Walking on Eggshells)
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「人格障害論の虚像 ラベルを貼ること剥がすこと」 高岡健著 雲母書房 2003/01
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「人格障害とその治療」と「人格障害論の虚像」は、みごとにそれぞれ日本における人格障害認識の対極を見せている、という感じ。
「境界性人格障害=BPD」は、人格障害論発祥文化圏での受容・実施状況を見せてくれている感じ。
「人格障害とその治療」は、嬉々として(要するに躊躇/ちゅうちょ/なく)人格障害の分類カタログをあげつらっている。
(この著者・町沢静夫の分類行為に対する躊躇無さについては 「ひきこもり vs 価値観」 でも全開)
先日某所でお会いした方は、「私はボーダーですから」が口癖になってしまっていた。アイデンティティや思考スキーマ(枠組み)が、性向や困苦それ自体ではなく病名や障害概念に侵食されているがごとき、治療ではなく病名にすがっている部分さえかいま見れる、そんな痛々しいありさまで。
「人格障害論の虚像」は、家族・社会・生育歴などの環境要因を無視する形で「人間性質をタイプ分けしてすべて個人のせいにしてしまう」西欧的観点の不備を指摘する。
先日某イベントでごいっしょした西欧在住の心理カウンセラーさんは、イベントスタッフと喧嘩したあと「あの人とはどうも合わない、私とどうタイプが違うと思う?」と私にふってきた。私としては目が点に。思わず返した言葉は「タイプじゃなくて立場が違うと思う」。人間を立場如何に関わらずカタログに沿ってタイプ分けするという、あからさまに西欧精神医療なスキーマにどっぷりとか?なに?ちょっと認識の違いがぶっとびデカげで、このあたりもぉすこし話を詰めてみたかったところ。
ふと思う。
西欧系のカウンセラーや心理療法屋さん、会う人会う人のきなみ頭の中でタイプ分けしながら日々暮らしているのか? 生育歴や立場より、人格分類が先に立つ?
タイプや型があるとみなす人にはそればかり見える。(血液型しかり)
「タイプや型がある」とみなす人に遭遇すると、人は本人の思いに関わらずいきおいタイプや型に鋳込まれてしまう。病だとする命名が病者を作り、障害の名のもとに苦しむ個人を排除する方法に向かう。
これは… 妖怪の作り方 と同じではないか。

「人格障害論の虚像」では、人格障害を分類するカタログは欧米ならではの社会事情で生み出されたものであり、それはレッテル貼りされた人間を適切に遇するシステムが社会的に用意されているという西欧的バックボーンがあってはじめて、それなりに機能するものだとする。
そこからすると、日本にはカタログに呼応したシステムがない、受け入れ土壌が整っていない。
手錠だけ導入して、厚生施設が用意されていない。
西欧的観点から「人格障害である」とみなされているものは、基本的に”流動変遷する心的状態の中の特定の時点の様相”を示すものにすぎない、とみなす立場にいる著者。本人のナラティブ(抱えている物語)や他者との関係性が変化すれば、それにともなって容易に問題も心情も変化しうる、心の障害ではなく心の状態の一つだと考え、病名の付与が及ぼす悪影響に危惧(きぐ)を表明している。
「「分裂病」の消滅」は、病名を与えた時点でそれは暴力的に患者を病人として形作ってしまうとする。名が精神に及ぼす暴力。レッテルが人の精神を蝕むという事実。

作られた病。
人の種々たるありようを、日々変遷する心根を、とある瞬間のみとらえてタイプだの障害だのという名を与え磔(はりつけ)にしてしまう行為。常に変化するもの相手に、勝手に性質を固定するレッテルを張り付けておきながら、その相からずれることを「治った」だの「変化した」だのと称してみたり。
「「分裂病」の消滅 精神病理学を超えて」
内海健著
青土社 2003/10
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p.316
本書の背景には、冒頭で述べたように、精神分裂病から統合失調症への呼称変更という問題がある。この出来事は、学問に対していささかのんきな私をたたき起こすものであった。それまでの分裂病をめぐる私の思考がすべて無に帰すようにさえ感じたのである。もっとも以前から何か空気の変化のようなものはあった。分裂病は劇的といってよいほど軽症化し、これは幸いなことではあるが、他方、思わぬところに出没するようになった。たとえばうつ病や適応障害とされている事例の中に、それとなくまぎれこんでいる。しかもそれらはDSM(米国精神医学会による診断と統計マニュアル〕を信奉してはばからない者には、決して見えないものである。
私は分裂病という病名を告知したことはほとんどない。確かにこの名は告げるのをためらわせる。だが、控えたのではなく、必要がなかったというのが実情である。出会いの絆、それがほんのか細いものであっても、それが通じていれば、この疾患には外からの視線はまったく必要がないのである。むしろ破壊的なものでさえあることは、本書を通して明らかにしてきたところである。
心の状態が変遷していく中で、投薬や治療が必要になる時点というものはある。
が、その時点以上に、単に「病名を手がかりにして」投薬や治療を行うということが行われてはいないか。
あまたの人々の関わりが生み出す事象の中で、特定の個人だけを取り出しその個人にだけ問題の原因を押し付けスケープゴートにしてしまうというようなことは、なされてはいないか。
犯罪者に、心の病に、関わった環境要因はシカトされてしまってはいないか。
医者という立場の都合、医療という枠組みが生む病…
ただし。
場合によってはレッテルを得ることで救われることもある。
レッテル(つまりポジションとか意味合いとか)が得られぬまま煩悶(はんもん)し続けるケースもあるわけで、いちがいにレッテルや病名がいけないとも言いきれないのが微妙に歯がゆいところ。

ところで。
「人格障害論の虚像」、私的にこの本の中で「これ白眉!」と思った点、 …それは
「親を殺していい」という提示。(p.101)
この親殺しは実行をともなう必要はない(いやリアル実行したらマジやばいっしょや)。
自分の物語の中で、人生の位置づけの中で、親から親という立場を剥奪する、親が持つ親という意味を殺す。それを必要であればやっていいとしている。
ありていに言えば、子供が親を勘当するわけだ。
救いの方法の一つとして、自己救済の手段の一つとして、これやっていいんだ。
助かる。
世の中、いらない親はいる。
力関係上、こっちがつぶれ殺されてしまいそうであるならば、親は捨てていい。
そこを理解する人間がいるのかもしれない、その可能性に「この本いい!」と惚れてしまう。
(「人格障害論の虚像」の著者は日本児童青年精神医学会理事)

★追記 この項の続きはこちら→「人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈」
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コメント
こんにちは
たまたまお邪魔しました.
興味深く拝見させていただいています.
ところで,障害のお話とは関係がなく恐縮ですが,よく「あの人好き嫌い?」という問いの答を求められることもあります.その両者の関係にも立場があると思うのです.心無い問いだと思い,返答に窮したことがありました.
また,分類屋さんは分類に徹する気がします.それが病理にかかわるものの場合は,人の生活の視点において適当なものであればよいと私は思います.
投稿 never | 2005.01.08 11:00