« 憎しみと攻撃の心理・進化・社会 | トップページ | 続・西洋vs東洋 »

2004.10.02

人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈

最近「人格障害論」を沙汰している人々、文化心理学は見たか?
人格障害論はどこで語られているんだ?

covercover
「人格障害のカルテ 理論編」  高岡健・岡村達也編 メンタルヘルス・ライブラリー 批評社 2004/05
 [ Amazon ] [bk1]
「木を見る西洋人森を見る東洋人 思考の違いはいかにして生まれるか」  リチャード・E.ニスベット著; ダイヤモンド社 2004/05 (原書2003/The Geography of Thought)
 [ Amazon ] [bk1]

まずはこれから。

cover「人格障害のカルテ 理論編」

 普通こういうタイトルを見たら、町沢某のように「人格障害にはこれこれこのような種類がありまして、それぞれはこのような機序と性質を持っておりまして」というような「理論」が並んでいるんだろうと想像しかねない。
 ところが。
 めいっぱい中身は反・人格障害論
 タイトルとは逆、反DSM(カタログ診断への反論)を声高に叫んでいる。
 この「人格障害のカルテ 理論編」の編者の一人は「人格障害論の虚像」の高岡健。 おおまかな方向性についてはさしあたり「人格障害という命名の暴力と位置関係」 が把握に便利か。
 高岡健は日本児童青年精神医学会理事、日本総合病院精神医学会評議員、日本精神神経学会評議員、雑誌「精神医療」編集委員だそうだ


某所で記した一文:
 私が心配しているのは西洋的精神医療が与える悪影響。
 最近日本では「患者に精神障害や人格障害の病名レッテルを貼ると、患者の心にダメージを与えて逆効果になりうる」という声が精神医療の専門家からあがってきている。
 DSM-4とかいう名称を聞いたことはないか? 西洋の精神医学関係者がこしらえた、心の病の定義カタログの名前だ。
 西洋的流儀に心酔しきっていない学者は「DSMカタログは非西洋文化ではろくに使えない部分がある」と指摘する。さらには「DSMに従っていると治る患者も治らない」とまで言うものもいる。
 DSMに異議申し立てをする研究者らは、人格を固定したものだとはみなさない。人格のありようは、各々の語り(人生のストーリー)や環境、条件、年齢などなどによってさまざまにうつろえるものだとみなす。(これはかなり東洋的な感覚ではあるが)
 が、うつろいうる人格に対して「**型人格障害」などというレッテルを貼ってしまうと、対象者の心はレッテルに鋳込まれ、変化の可能性を奪われ、むやみに萎縮してしまう恐れがある。
 さらに敷衍するならば、困窮している個人に「障害」のレッテルを貼る行為は、すなわち障害の原因をその個人に押し付けてしまい、環境の側にある障害要因を無視することになる。
 人間は多様な性質を持つようにできている。
 特定のジャンルに押し込められる人々が生きにくさを感じるとき、それは彼らが悪いのではなく、環境の側が特定の人々に困苦を強いるような粗悪な社会条件になってしまっている、そういう見方もできるはず。本来の人間多様性にそぐわない未熟粗忽な社会。
 だのに「**型人格障害」などのレッテルは、社会の側の不備や未熟さを隠蔽免責して、すべて弱者である個人の側に不備原因があるとしてしまう。

「人格障害のカルテ 理論編」p.8 高岡
仮に人格(状態像ではない人格障害)を治療の対象ととらえるなら、それは常に人間存在全体を排除していく危険を払拭できないことになります。なぜなら、人格(状態像ではない人格障害)は、うつ病の病前性格として有名なメランコリー神話型などと同じく、生涯を貫く特徴だからです。

 冒頭はボリュームたっぷりの宮台真司と高岡健ほかの座談会。
 社会条件の変遷によって、「障害」として現れる人間性質も移り変わる。その視点を基調として意気投合する二人。

 たまたまある日あるときの環境・社会条件が¥¥君にとって過酷だったとき、¥¥君がつらさを感じてたまたま相談した相手が「あなたは**型人格障害です」と言ってくれてしまったとしよう。
 うわ! 人格に障害!
 治れないじゃん! どうするよ。
 暗示縛りかい。人格否定かい。
 悪いのは環境じゃなくて個人の人格かい!

 人格障害概念への異議申し立てはごく最近、この数年の間に顕在化してきたんだろうか。
 2年ほど前には↓読んでうわ〜とか思ってたけど。

cover
「人格障害とは何か」

 鈴木茂著
 岩波書店 2001年

2年前当時の簡単感想:ふと参考までにと手に取った本だけれど、正常/異常/善悪/無垢/中庸/倫理/道徳と考察が深く、味気ない書名が何かの間違いじゃないかと思うほど濃くまっとうな内容。脳系でキレや犯罪を論じることが多い人はこれチェックしておくと吉。他人の「悪意」にひっかかっている人にもオススメ。

 この著者・鈴木茂氏も『人格認識自体がもたらす「障害」について』という題で「人格障害のカルテ」に一文を寄稿している。

「人格障害のカルテ 理論編」 鈴木茂
p.58医者が不用意に何らかの概念を提起すれば、そのようなものが「病気として」実在するかのような印象を人々に与えるとともに、あたかも精神科医がそのような事例を「治せる」力をもつかのような幻想を人々に抱かせてしまう。
p.59人は誰でも、外部(他者や社会)から自分の人格を構成されてしまうことは避けられない。しかし、自己意識によって常に自分の人格を内的に規定し続けなければならない義務はないし、そのような事後的内省の昂進は一種の精神的な「障害」とも考えられるのである。

 とりあえず「人格障害とは何か」 「人格障害論の虚像」 「人格障害のカルテ 理論編」 の3冊はこの流れの濃いところらしい。
 どなたかこの流れがいつ頃から顕在化したか把握してらっしゃいませんか? ここ数年、とみなしてかまわない?

●●●小玉7●●●

▲アンカー で、その流れにこれ↓が加わるともっとビビッドな色が立ち現れてくる。

cover
「木を見る西洋人森を見る東洋人
 思考の違いはいかにして生まれるか」

 ニスベット著
 原書: The Geography of Thought

 この本は要チェック。
 いや、人格障害論の各書籍も要チェックだけど。
 文化差がいかに人間の思考と知覚に如実に影響を及ぼすかが、大量の証左とともに多面的に検証してくれている。

 要するに、高岡らの反人格障害論はめっちゃ東洋的なんですよ。
 環境原因を考察する。環境要因にまず注目する。
 これは文化差じゃん!
 西洋のお方がたは個人に要因を求めるんですってよ。
 東洋は、個々よりは包括的な環境や背景を考察したがる。
 西洋が手をくだせば結論は「人格障害カタログ」になるし、東洋的には「それはヘンでしょ、環境要因や心の変遷が無視されてるぞ」という話になるのはもうしごく当然のなりゆきなわけで。

 何やら意味深かつ複雑そうな「反人格障害論」の流れが、この「木を見る西洋人森を見る東洋人」を経たらあっさり「な〜んだ」になってしまう感じなのが、ことの重大さを不用意に軽く見せてしまいそうでちょっとアレだけれど。
 でも読み合わせに絶オススメなツボ。
 人格障害に関する議論をなさるお方には、これ目を通しておいてくれるとかなりインパクトあるんじゃないかと。

 あと細論。
   「人格障害のカルテ 理論編」[カルテ]
   「木を見る西洋人森を見る東洋人」[東西]

●文化にとって都合がいい基準からはずれていると、障害よばわりされる。
 ならば文化が異なればそれは障害ではなかった可能性が。
●社会側の都合で、特定の人間にレッテルやスティグマを張り付けて処理する、しかもそれは所詮社会を背景にした精神科医の判断にすぎない。
 社会に何を想定しているのか。
 社会とはすなわち”精神科医の都合”ではないのか。[カルテ]

「人格障害のカルテ 理論編」 西山詮
p.142マニュアルというものは、「そのようになるおそれ」どころか、臨床家をして確信的、組織的に「相手に名札をつけることだけで満足」させるように、ことを運んでいくものである。多くの精神科医が、類型判定の信頼性ばかりに気を取られて、類型の妥当性を考える能力を失うのも当然である。

「人格障害のカルテ 理論編」 塚本千秋
p.185「人格障害」という用語は、都合のよい用語だ。一般大衆にとっては、自分勝手だったり犯罪を犯す人間が同じ人間であっては困る。「○○人格障害だからそんなことをするんだ」と言ってもらえれば一安心。自分たちには関係のない世界の話にすることができる。

●人格障害の定義はその名とはうらはらに人格の記述ではなく行動の記述になっている。あれをする、これをする、それがすなわち人格呼ばわりされていいのか。[カルテ] そも「人格」概念が東西で違うのかな

●人格障害とみなされる現れ方を、それなりのコミュニケーションのありようの一つだとして見直し受けとめようとする。[カルテ]
 このコミュニケーション視点もしごく東洋的。親子がおもちゃで遊ぶとき、西洋ではモノの個々の特徴を云々しがちなところを、東洋では人と人の間のモノの受け渡しや関係言及が中心になるという例も挙げてある。[東西]
●場所と適応に注目する。どんな人格であれ、場所や立場などの状況しだいで良くも悪くもなりうる可能性。相対的視点、東洋的ですな。[カルテ]
●大河内敦子+粕田孝行の「人格障害論の現状と問題」では、”患者”の揺れをもろにかぶって感情的に動揺し振り回される看護側の現場における苦しい心情がリアルに吐露されている。[カルテ] 身につまされる。

[東西]は西洋各国東洋各国の中にも多様な差異があることは充分認識している。その上で、敢えて大きくくくって立ち現れてくる傾向差を示す、その意図のもとに編まれている。ニスベットの文化心理研究はこれまでにも 何度か流れてはいる

「木を見る西洋人森を見る東洋人」p.59
世界の見方:環境か、個物か。背景か、主体化。
世界の成り立ち:実体 substances か、対象物 objects か。
世界の操作性:思い通りに環境を変えられると考えがちな西洋
世界の変遷:安定を基本に据えるか、変化を前提にするか
世界の体系:カテゴリー分けか、関係の網か
世界の論理:意味より形式論理を重用する西側
世界の対立:中庸を是とするか、唯一の優位性を重んじるか

●西洋ではとある傾向はそのままエスカレートして続くとみなしがち。東洋では傾向は循環し変遷し上下するとみなす傾向。
 これを人格論にあてはめると、「障害はほっておくとエスカレートする」vs「状況がうつろえば障害は快癒するし正常は障害に変化する」という図になってくるてなもんで。
●西:世界は単純なものの寄せ集めだとみなす、形式を優先して把握する
 東:世界は複雑な実体の干渉の結果だとみなす、実質を優先して把握する
 三角の粘土を見せると、西は「三角を見せられた」と思い、東は「粘土を見せられた」と考える。
●西洋影響下の人は、場面の中の個人や個体に注目する。
 東洋人は場面の中の関係性や背景の状況に興味を惹かれる。p.109
 そういえば今年のイグノーベル賞、これは東洋でやるとなんぼか結果違っていたかもね。
> 光学迷彩ならぬ注視迷彩の見えないゴリラ
> 2004/09 New Scientist Invisible gorilla steals Ig Nobel prize
●犯罪が起きたときの報道の違いにも顕著な差があるという。[東西]
 東洋では社会要因や人間関係、犯人の経済要因や育成環境などをさぐろうとする。
 西洋では犯人の性格や行動に原因を求める。
 これまんま「人格障害」の東西齟齬じゃないですか。
[東西]では「場依存性」field dependence)という概念がキーとして挙げられている。ふ、あたしゃ思わず原書まで買って参照しちゃってます
 知覚認識が環境条件に左右されやすいか否か。
 斜めの環境の中で垂直を認識できるか否かというしごく単純なテストですでに「場依存性」の多寡差が東西で出てしまう。日本人は比較的「場依存性」が高めな文化だと言えるわけで。

●オンラインは「場や背景」が読みづらい。
 主体中心ではなく場や背景を手がかりとする行動に慣れ親しんだ人、「場依存性」が高い人には、場が見えないネットの世界は足元がおぼつかない場所なのかもしれない。
 主体中心発信のブログがウケ、固定ハンドルでネットを闊歩する西洋人と、ブログでは逼塞し背景考慮の要らない匿名掲示板にたむろい眇を交わす日本人、そういう絵も描けるのか。

[東西]は、彼我の文化差をカリカチュアライズしてむやみに単純対立させようってわけじゃない。
 国や土地だけじゃない、なによりごく短期間であっても、文化環境は我々の認知能力や思考手順に大きく影響を及ぼしてくれる。日々我々は東西混淆なメディアに晒されている。その中、東洋的な絵、西洋的な絵を見せられただけでも、我々が何を見るか左右してしまうこともあるのだという、これけっこう自我瓦解っぽくて好き。
 人間はフラジャイルである。夢忘るることなかれ。あ、この物言い自体東洋的ってか
 …そうさな、東洋に触れるチャンスが少ない文化圏の西洋人は「異なる視点がありうる」ということを認識しづらいんだろうな。
●数ヶ月もあれば、異邦での暮らしは人物の行動や認識を十分組み換えてくれる。
 「人格障害という命名の暴力と位置関係」に記した海外在住邦人カウンセラー(在英10年目)の視点は、失礼でもなんでもなく素直な西洋的知覚影響の端緒だったと。
●あとまだまだ東西差は挙げられている。
 他者の気持ちの察知を優先するか否かとか、討論習慣の有無の必然性とか、コントロール幻想は西洋で起きやすいとか、意外なことがあっても「わかってた」と東洋人は思い込みやすいとか…。

●しかし、なんせたまさか西洋人と交流したあとで[東西]読むと妙に気まずいったら。
 協調の中に価値を置く文化圏の日本人は、その関係で比較的self-esteemが低めで、自分自身についての評価を他者に対し普通に悪めに言う傾向があると。で、普通にそれやっちゃったら相手あせるし。
 言動の意図がさっぱり察してもらえなかったり、逆効果になったり、見ているものが彼我で全然違っていたり、場面によってはかなり深刻なコミュニケーション断絶が発生しますよと。

●個人主義か、集団主義か。
 西洋の中でも個人主義が突出しているのはアメリカ。欧州ではアメリカほどの極端さはあまりないらしい。
 で、アメリカ産の「スタートレック」。汚れエイリアンのボーグの設定が、妙に西洋から見た東洋人を想起させるような設定でかなりキモかったりする。

 なお、進化心理学方面〜某社会心理学派的には、「木を見る西洋人森を見る東洋人」はなぜそこにそのようなホメオスタシスが生じてきたのかとかのあたりでちょっと物足りなく不評だった気配。(でもこの本では逆にジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」などに対して物足りなさを表明している:p.55)
 「場依存性」について、農耕民文化で高く狩猟民〜商業文化では低くなるとして証左も挙げている。

●●●小玉7●●●

 困ったことに、いったん「木を見る西洋人森を見る東洋人」を読んでしまうと、あと後遺症がしばらく続いてしまう。

 例えば次にこれを読んだのだが、

cover
「私は病気ではない
 治療をこばむ心病める人たち」

 ザビア・アマダー/アンナ・リサ・ジョハンソン著
 星和書店 2004/07
 (原書2000/I Am Not Sick, I Don't Need Help!)

 病識がない患者、自分は正気だと思っている精神病者にどう対処するかという本なのだが、著者が主眼として出す持論はこれら患者は「前頭葉に障害を持っているゆえに自分の病態を正しく認識できない」というもの。
 つい「ああ、西洋式じゃん」とか思ってしまう。
 何かの正体に還元して処理する。環境要因は考えなくてもやっていけると。
 かといってねぇ、社会変化が著しくなった現代では「場依存」するにも場が読めないことが多いので西洋式な還元的言説のほうが効果あったりしちゃうんだろうなとかも思ってしまう。
 いや、それ以前に病識がない患者にどう接するかというのはかなり真剣にヘヴィな話ではあるのだが。

 ああ、いかん。
 前に読んだ金森氏の 「負の生命論」 さえも「むっちゃ日本的な言説やってしまってるんかい」みたいに思えてきた。まぁ実際そうなんだろうけど、だめだちょっとニスベットの文化差論暗示に知覚思考が侵されてしまっている感じ。

 …そうか。 つまりこれは私の「場依存性」の現れなのか。 ん?

●●●小玉7●●●

 ちょっと焦点がぼやけてしまったか。

 要は「人格障害と対峙している研究者、文化心理学を見ておいてくれ!」

 

追記: この項の続きはこちら→「続・西洋vs東洋」

●●●小玉7●●●

追記●一部でこの話を、「西洋と東洋の対立・反目の話だな」と解釈なさっている気配があってすごくイヤげ。
 往々にしてそのような人は、かねてより物事をなんでもかでも二項対立させて考えるような、浅くて単純な(誤解の危険を踏まえた上で敢えて言えば)西洋的なスキーマで世間を歪めて解釈なさっていたりする。
 私は二項対立の存在の指摘はしたが、二項対立を奨励してはいない。
 先入観や偏見は知能指数を下げますよ。

偏見の代償 偏見を強く持つ人は頭が悪くなる
2003/04  EurekAlert The price of prejudice: Interactions with minorities can sap mental capacity

●●●小玉7●●●

追記:タイムリーな論文が。

人格とその障害はこれまで固定された性質だとみなされてきたが、ニューヨーク大の研究で人格は可変であることが示された
2004/10/04  EurekAlert  Long thought inflexible, personality disorders show evidence of change
Personality disorder symptoms are supposed to be stable, enduring, and persistent across the lifespan, however researchers at Binghamton University, State University of New York, and Harvard report evidence that such disabling psychiatric conditions are flexible and appreciable change over time is possible.

●●●小玉7●●●

ニスベットがらみで追記:

名誉と復讐の通文化比較 ニスベットの Culture of honor (COH) theory 検証
2004/09 Evolution and Human Behavior Volume 25, Issue 5, Pages 277-353 Farmers, herders, and fishers: The ecology of revenge


へぇボタン:へぇ〜 と押してみるもよし

情報庫: 人格障害   文化心理学



|

« 憎しみと攻撃の心理・進化・社会 | トップページ | 続・西洋vs東洋 »

コメント

こんにちは。
とても面白い記事ですし、大変参考になりました。

ところで高岡氏の著作では『人格障害論の虚像』は受け入れらやすいと感じました。真に受けてもいい面があると感じたといいますか。『新しいうつ病論』ではかなり面くらってしまいました。私はこの種の学問には素人なので真に受けていいのか戸惑ったといいますか。
人格障害概念への異議申し立ては、その世界の人たちの間では、どの程度、認知され、取り上げられているのでしょうか。

投稿: swan_slab | 2004.10.03 03:26

はじめまして!
「電網山賊」さんのところからリンクして、こちらに伺いました。それで EurekAlert をみつけて、おもしろそうな内容だったので、訳してみました。ご興味あればどうぞご覧下さい。


>swan_slabさん
こんにちは、ここでお会いするとは。世間は狭い。(笑)
ここのオーナーさん、もしかしてここ、見てないんでしょうかね。(・・・って、swan_slabさんも見てなかったりして。)

投稿: INCOGNITO | 2004.10.07 23:52

翻訳紹介ありがとうございました。
このところ手一杯でろくに巡回できてないんですよね、解読もけっこうはしょって適当にやっちゃってたりする。助かります。
「はてな」ってよくわかってないけどあちらではコメントはつけられない仕様なのかな。

投稿: Amasaki | 2004.10.08 02:10

いまさらコメント。
ええと、swan_slabさんのコメントは「その世界の人たち」について詳しい人に対しての問いかけですよね、私宛じゃなくて。だと思ったからスルーしていたんだけど、私宛?
だとしたら、私とても心理学は門外漢、「その世界の人たちはどこにいるのかわからない」状態でしたためているのでちょっと返答いたしかねるのでした。

投稿: Amasaki | 2004.10.08 13:24

どうもこんばんわ。
えーと、「はてな」にコメント欄はあるのですが、私は表示させていないのです。閉じてるというか。そのくせ、すみません、人さまのコメント欄のことにはとやかく言って。swan_slabさんのコメントについては勘違いしてました。ご気分害されてたら申し訳ありません。
またときどきお邪魔させていただきます。それでは。

投稿: INCOGNITO | 2004.10.08 18:46

えーと、元患者です。正確には「境界例」だったのかな?いまは治療の末、うつ状態に落ち着いてます。加齢で落ち着く例もあるそうです。

確かに「人格障害」という病名は破壊的で、そう言われた患者の痛みは長いこと消えません。ただ、そう診断された方に問題があることもまた確かだと思います。ただ、病状はピンキリですし、「境界例」という非常に似た病状(性格?)もあります。プロのカウンセラーに一度聞いてみたところ、どうも「人格障害」とは微妙に違うらしいです。DSMの批判はときどき目にしますね。ただし、精神科医の文章を最近読んだのですが、DSMだけでは診断できないそうです。

トップで薦めていらっしゃるローレン・スレイター氏も元患者です。回復してここまでの業績を上げる方もまれにいらっしゃるようで。彼女は前作「わたしの国へようこそ」で、その診断名の辛さについて書いています。
新作情報を知って嬉しいです。どうもありがとうございました。

長文すみませんでした。

投稿: chiruru | 2005.09.07 17:58

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/863/1576039

この記事へのトラックバック一覧です: 人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈:

« 憎しみと攻撃の心理・進化・社会 | トップページ | 続・西洋vs東洋 »