メディア上の隠微な人種差別
このたぐいの研究分析、日本のメディアについてなされたものにはどんなものがあるのだろう?
「イギリスにおけるマイノリティの表象
「人種」・多文化主義とメディア」
浜井祐三子著
三元社 2004/06
イギリスの報道を調べた一冊。
あまり話題になってはいないようだけれど、これ目を通しておいて損はない、意外な掘り出し物かもしれない。
人種、もしくは出身民族や宗教が問題となる事件について、各新聞が、人・集団・人種・宗派等をどのように表現し、それがどのように変化していったのか。その検証と分析。
報道の中にあらわれる偏った視点、偏った姿勢、偏った想定。
そしてその偏りに気づかぬままに報道を読むであろう人々。

メインとして取り上げる事件は
・ ハニフォード事件
・ ラシュディ事件(『悪魔の詩』)
前者は、
・有色人種の生徒が多くなると学校のレベルが下がる
としたハニフォード氏の主張と彼の処遇が問題に
・人種差別なのかそれとも正統な懸念なのか
・報道上:良き父良き夫として、良き心の持ち主として
親しみ慈しまれるべき人間として「表象」される
白人のハニフォード氏
・報道上:無視されたり単純化されたり
無個性に頭悪そうに描かれて貶められる有色人種側の抗弁
・彼の主張に同調して有色人種を嫌い
白人の多い学校に転出していく白人たち
・無罪を勝ち取り政府に歓迎されるハニフォード氏
(まるで1960年代のアメリカのようだがこの話は1980〜1990年代の英国)
後者は日本でもいろいろ報道され少しは知られた件。
・イギリス人小説家ラシュディ氏@有色人種の作品が
イスラム法に抵触する内容だとみなされ、
イランの最高指導者から死刑宣告を受け
世界のイスラム教徒から命を狙われるハメに
(冗談みたいな話だが、実話なんだよな)
・報道上:新聞はイスラムからの異議申し立てを
蒙昧かつ理性を欠いたヒステリックなものと単純化して描く
・報道上:在英イスラム教徒側からの見解紹介が見あたらない 無視されている
・報道上:血肉も家族もある人間として紹介された
白人のハニフォード氏のケースとは対照的に、
有色人種のラシュディ氏は、ただ諸問題の根元という
理解や親近感とはほど遠い記号(表象)として扱われる
・ひいてはラシュディ氏の作品はイギリスという国をも誹謗する問題作だとして
よけいに「理解しがたい内容」という扱いになっていく
・おそらく今後一生ボディガード付きで隠棲しつづけねばならないラシュディ氏
・マージナルな自分のアイデンティティを問うた作品を
発表したことにより、どちらの側からも所属を否定され、
ことさらに居場所を失うことになった個人

人種主義。
イギリスでは「イングランド人らしさ:Englishness」や「イギリス人らしさ:Britishness」などとして立ち現れやすい。
郷に入っては郷に従え、どころではない何かもっとそれ以上の、お高い一元至上主義?めいた文化感覚 … 例えば日本のお茶や中国のお茶を紹介しても、ひとしきりおもしろおいしくいただいてくれたそのあとで、「それではみなさん本当のお茶を飲みましょう」といそいそアールグレイをいれてくれるという、そんな、無垢と善良の上座にふんぞりかえったごとき異文化に対する非常な失礼さ。
「サイクル(回転)」と「サイ来る」は日本じゃ同じでしゃれになるんだよ、という話を日本人がふったら、「sとcの違いもわからないのか何を言ってるさっぱりだ」と喧嘩腰になるイギリス人、それをまぁまぁ異文化だしさとなだめに来てくれる多文化カナダ人、そんな昔話も…当事者的にはどうも笑えないが。
新世界のアメリカやカナダと比べて云々するのは不当だろうか。異文化や多文化の意味をはき違えている? 多文化感覚が欠けがちな印象がある英国。
まあ、多文化慣れにはほど遠い日本、他国のことを言っている場合じゃないかもしれないが。
自分が悪者かもしれない という自省習慣が濃いか薄いか@お国柄。

ニューライトと差別「新しい人種主義」の関係も紹介されている。
ニューライト:1960〜1970年代に誕生した政治運動の一つ。
市場自由主義と社会権威主義の折衷
自由市場の確保には強い国家が必要だとする
新しい人種主義:複数文化(人種)の調和共存は不可能とみる
差別ではないポーズのまま他者排除を容認促進する
ニューライトと「新しい人種主義」は、学校を多文化共存状態にしたら教育崩壊が起きるのだとして、異文化排除・有色人種排除を正当化した。
異文化や多文化の意味をはき違えている?
一元主義と共存に、まことしやかに優劣を張り付ける。

マイノリティは、マイノリティとして発言すると、無視をされたり曲解されたり悪意で受け取られたりしてすこぶる不利だったりする。
ゆえに、やむをえずマジョリティのふりをして発言する、そういう方策を採らざるを得ない場合が往々にしてある。
例えばフェミニズム関係の問題で、性的マイノリティが性的マイノリティの「立場」で発言してもマトモに受け取ってもらえないことがある。戦略として性的マジョリティのふりをして性的マイノリティの代弁をする、という方策もアリで効いたりする。
例えば触法精神障害者関係の問題で、精神障害者が精神障害者の立場で発言してもまずマトモには受け取ってはもらえない。健常者のふりをせねば何もできない、そういう現実が往々にしてあったりする。
で、ハニフォード事件など見る限り、「新しい人種主義」的差別の世界では、マジョリティのふりをしても全然ダメな場合が現にあるんだなぁとげっそりしてしまう。
つまり。
白人であっても、有色人種側の弁護をする人間は有色人種と同列扱いになる、偏見と差別の対象にひっくるめられ、報道上まともに描いてもらえなくなる。そういう実例。
アイデンティティや個人のありようは、個人が選ぶものではなく、他者から押し付けられるものだったのか。
グループの認識。
所属の認識。
個人の自由意志を奪う他者からの視線。
差別被害者からの異議申し立ては「ヒステリックな人種」「カッとしやすい民族性」「民主主義を受け入れられない文化」のたまものであり、まともに受け答える必要はないものとみなされる。
「我々」は平凡で善良な市民に親近感を抱き、「彼ら」は過激で暴力的な敵対者だから何をしても過小評価される。
すべからく、イギリスらしい文化の元にあるとされる者以外は蔑視の対象にされ、しかもそれが蔑視であるとは書き手にも読み手にも確とは認識されていない気配。
高貴なイギリス、とか言っている場合じゃない感じだよ。
逆にひどく下卑たキザオに見える。
これは昔の話じゃない。
ローカルミニマムな話じゃない、社会の良識たるべき天下の英国のマスメディア上でこれだった。
もしかして、ふだんから階級間の偏見報道が許容されているお国柄だからこそ、かくのごとき人種偏見報道も可能だった、みたいなことはありえる?
日本ではどうなんだろう。
まして異文化免疫のすこぶる少ない日本。
報道組織の数と成熟度がそんなに足りてなさげなこの日本。
イラク人質事件では何かやっちゃいけない表象作りをしてしまってはいなかったか。
札幌の地下鉄では”不必要な個人情報まで見出しに書き連ねた雑誌釣り広告”にやむなくマスクをしていたが。
科学報道に於いても何かやっちゃいけない表象作りをしてしまってはいなかったか。
科学者はどう描かれているのか。
妻子を持つ平凡善良無垢な技術者としてのノーベル賞受賞者。
独身で野心に駆られ企業スパイも辞さないバイオ研究者。
そんなモチーフをこしらえてはいなかったか。
新しい知見を、逆効果面に無知無垢なまま真に受けて不当過剰に礼賛したり、学者の威光や企業の都合に左右されて表現したりしてはいなかったか。
ああ、たまに科学者側もやってしまってるな。文化側の主張に無知蒙昧レッテルを付けて過小評価したりね。
遺伝子組み換え作物栽培報道に於いても、双方の言い分をメディアはちゃんと采配して報道していたか。
推進側が反対者のことを「先入観と無知と偏見に凝り固まって云々」と言ったり、反対者が推進側を「自分の利潤のことしか考えず反対者の心情や文化的実状を見ていない」とくさしたり、そんなありがちな低レベル論戦に足並み揃えたままで取材報道してはいなかったか。
はなから一方的に消費者側におもねって編集してはいなかったか。
推進側の姿勢視点を確認せずに報道していたのはどこだ。「買ってくれるアテがなくなったので作るのをやめた」のに「農家が時期尚早と判断して栽培を断念した」と報道していたのはどこだよ。
それにしても、栽培推進側の広報手法の下手さを指摘してあげるような行為はよけいな手出しでしかなかったのかなぁ。もうちょっとアレなんとかならなかったのか。
大丈夫か。
日本の報道メディアに関して、異国の人でもいい、いや異国の人のほうが良く見抜いてくれるかもしれない、偏りと無自覚を指摘してくれ、記録してくれ。
我々の蒙昧を映し出してくれ。

ついでに。
![]() 「悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神」を必要としないのか」 リチャード・ドーキンス著 早川書房 2004/05( 原書2003 ) [ Amazon ] [bk1] 新刊とは言え、中身が新しいわけではない、25年間のエッセイを寄せ集めたドーキンスファンブックみたいなもん。(さすがに4半世紀ぶんともなると内容的に散漫でかなわない) |

2004/11/24 追記:
イギリスメディアでの”良識的なハニフォード氏”、”ヒステリックな有色人種”、みたいな描き方は、もしかしたら 原因を個人の資質に求める西洋 の一つのパターンだったのかもしれない。
だとすれば、日本のメディア報道を見る場合、 原因を環境要因に求める東洋 :環境要因を都合よく曲解していないか:という点にも目を配った方が良さそうだろう。

2005/01/25 追記:
<取材日記>反北朝鮮感情に流された日本メディア
2005/01 ▲日本語記事 中央日報@韓国
はいはい。 もっとばしばし突っ込んでね。>海外メディア
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コメント
はじめまして。
紹介されてる本も事件についても知らないのですが、
イギリス社会の国際化感覚はこういう感じ(偏見による攻撃よりも無関心による黙殺)よなぁ、と
納得しながら読んだ後、当ブログで引用させて頂きました。(お茶の話のところです)
トラックバックをするような話ではないので、
リンクの報告だけです。
ではでは。
投稿 ゆき | 2005.01.24 08:21
記入するURLを間違えました。
引用したのは、このコメントのURL欄に入れた記事でです。
失礼しました。
投稿 ゆき | 2005.01.24 08:26
興味深いエントリでの言及ありがとうございました。
浜井祐三子著「イギリスにおけるマイノリティの表象」p.238
【あるデータによれば、九〇年代半ばで、[イギリスの]主要高級紙の編集者六三人、大衆紙の編集者七五人のうち、いわゆるエスニック・マイノリティは一人もおらず、主要全国紙の記者四〇〇〇人のうち、マイノリティの記者はわずかに二〇人であった。】
↑
日本の報道従事者にいったい何名エスニック・マイノリティがいるのか、と考えると…ねぇ。
ラシュディ事件:
政治哲学の研究課題 Bhikhu Parekh
ハニフォード事件:
Mark Halstead, Education, Justice and Cultural Diversity: an Examination of the Honeyford Affair, 1984-85 (London:The Falmer Press, 1988)
投稿 雨崎良未 | 2005.01.24 14:12
こんばんは。
両事件の資料、有難うございます。
時間が無くてちゃんとは読めてませんが、イギリスは、J.S.MillのOn Libertyの時代から、大して進歩してないってことよな、実際。という感じでしょうか?
英国メディア内における人種・性別・階級の偏りは、今でも続いてると思います。あと、現場と編集室での人口比の違いも、無自覚な捏造に繋がるりますよね。確か、↓の本で読んだんだと思うのですが、ちょっとうろ覚えです。
日本の場合は、エスニック・マイノリティーの存在自体を黙殺してるような、、、。
メディアだけではなくて、社会全体で既存問題を避けたまま国際化云々って騒いでる姿は、嘘臭いなぁと思います。
Paterson, Christopher, 1996, “Global television news services” in Sreberny, Mohammadi, A. (ed), 1997, Media in Global Context: A Reader, London: Arnold, 145-160.
投稿 ゆき | 2005.01.25 08:46
イギリスに限らず、どこでもたいがい大なり小なり「我々は見えるが彼らは見えない」(無視という意味と、偏見という意味とを兼ねて)ってのはありますよね。
ラシュディ事件のほうは日本語版の翻訳者が殺されてしまう(!!)など、日本でもかなり話題になったのですが、ハニフォード事件のほうはウェブ上にも日本語情報さっぱりで。
浜井さんの著書が取り上げなかったら私は知らずに終わっていたっぽい。
昨日図書館で 大熊栄(榮)著「サルマン・ルシュディの文学—「複合自我」表象をめぐって」人文書院 をゲットしてきました。(なぜ日本での通り名のラシュディではなくルシュディと表記したんだろう…) ラシュディの作品は読んだことはなけれど、「複合自我」というコンセプトにはめっちゃ惹かれたのでした。
投稿 雨崎良未 | 2005.01.26 17:15