遺伝子組換え食品はなぜ心配される?
遺伝子組み換えや科学技術はどんな表象(ひょうしょう)として人口に膾炙(かいしゃ)しているのか。
その世界観構造とかナラティブとか位置とかを、分析してくれている人はどこかにいるかな。
「遺伝子組み換えは恐い」、とおっしゃる人がいらっしゃったので話を聞いてみたら、「食品添加物」と「遺伝子組み換え」の区別がわかってない人だった。
「遺伝子組み換え反対派は偏見と無知だらけだ」とおっしゃる方がいらっしゃったので話を聞いてみたら、ご本人が相手の話をうまく理解できない偏見の強いお方だった。
「遺伝子組み換えは安全だ」という人と話をしてみたら、全然生態系について理解なさってない人だった。
…頭の痛い例はたくさんあるし実際遭遇もした、けど、およそたいがいの人はこのド極端な両タイプではなく、その中間に散在しているのだと思いたい。

リスク評価 とか、法とか利潤とか飢餓解消とか、個の利益と総体の利益の相克とか、”正しい判断”はくだすのは難しいのだろうことはわかる。もとより簡単に答が出せる問題ならとうに片が付いているもんだしね。
いやそれ以前に。
なぜこうもめるのか、遺伝子組み換えのリアルも大事ではあろうけれど、それよか私的には「遺伝子組み換え」や「科学技術」「企業」「自然」にまつわる人間の判断心理機序をいろいろ分析しちゃったほうが面白いんじゃないかなと思う。
危なそうなモノなのかどうか、よくわからなければ「似たカテゴリー」っぽいモノを十把一絡げに全部忌避するほうが簡単: ヒューリスティクス。
『共感能力と下層階級 偏見、信仰、ヒューリスティクス』
それは簡単に言えば偏見であり差別であり「判断の手抜き」なんだけれども、それが「判断の手抜き」なのだとは認めない人々である場合、問題がこじれる。
遺伝子組み換えがらみで推進拒否問わず声高な人々の全部が全部「判断の手抜き」をしているのだというわけではない。「判断の手抜き」をするように声高に誘導することによって、他者を操作することによって、自分の利益を拡張し仲間を増やそうとする、方策としてそういう手法は現に効いたりするわけで。効くのはいいけどそれが同時に双方の偏見助長にもつながっている
で、この本:「遺伝子組換え食品 どこが心配なのですか?」。
![]() 「遺伝子組換え食品 どこが心配なのですか?」 Alan McHughen著 丸善 2002年 (2000/A Consumer's Guide to GM Food) [ Amazon ] [bk1] |

わかってもらえてないこと、勘違いされていること、へたくそな説得や強引な曲解宣伝があること、いろいろな事例やデータが面白エピソードを織り込みながらふんだんに紹介されている。
読みやすいしクール。
正しい情報を見極めるのは難しいかもしれないけれどお願いだからできるだけ正しい情報を踏まえてくれよ、と著者のなげきがエコーする。
実際危ないこともあるし全然マトハズレで危なくないこともある、杞憂は多すぎるし相互理解も成り立っていない、何をどうあがこうと組み換え遺伝子は世界に蔓延するしそれのどこがどうまずいのかまずくないのか見ずに語るなよ風聞と偏見に頼るなよと。
世界観構造から想像するに、どこか遺伝子組み換えに”遺伝子=原子=放射能”のような位置混同が影を落としてはいないだろうか。どこか開発推進側に”企業=搾取””人工=原罪”のような色照明が当たってはいないだろうか。それを一方だけのせいにして自戒を抜かしてしまってはいないだろうか。
「健康ブームを読み解く」 で野村一夫氏が示していた視点、行政組織、専門家批判:行政や組織や専門家という一つのがっちりとした社会システムに対抗する原理としての異議申し立てに通じるものもあるのだろう。ブラックボックスへの異議申し立て。民衆側の世界観構造への侵襲に対する異議申し立て。
世界観構造への侵襲が起きれば、排除と回帰のムーブメントが発生するのはごく自然な成り行きであり、蒙昧以前に人間とその社会に基本的に備わっている保守反応。
その機序を理解せずに「民衆は無知で蒙昧だ」と嘆息する推進側も、民衆側の世界観構造を侵襲せずに推進する方策を慮るというアタマが無い点で、充分に無知蒙昧であり植民地主義的。この点では宗教を蔑視する リチャード・ドーキンスも同罪
反発される遺伝子組み換えの主たるものは「栽培・販売側に利益があるもの」。
栽培しやすい、収量が上がる、農薬に強い、云々。
農家のため、環境のため、と言っても、消費者や第三者に利益があるものではない。
「アッチの利益にだけなる危なそうなものを押し付けられる」のであれば、自然に「行政組織、専門家批判」も発生するだろう。それが「遺伝子組み換え」という記号を頼りに偏見予断を醸成していく。
「遺伝子組み換え」という記号に「消費者側の利益」というイメージを植え付けるにはどうすればよいか。なんか誤解されそうだけど、私は推進側ではないし拒否側でもない。人類死ぬときは死ぬし病むときは病む。単に騙すにしろ善意にしろ言いたいのは「もっとスマートにやれ」。
国益になるから、とか価格を安くできるから、とか程度の栽培側からの正当化では効かないだろう。不信はすでに健康不安にも直結してしまっている。
栽培現場に対しての反発は主に先鋭運動家からの環境懸念がメイン。

消費現場では、そこらのおじさんおばさんたちは「なんとなく健康に悪そうだから」と忌避しているのであって「環境に悪そうだから買わない」という者はまれ。「健康に良さそう」ならかなりの割合で買ってしまう現実がある。
ひとつの解消策として、当面の採算をさしおいてでも、まず最初に対農薬でも収量アップでもなく、「医薬」「健康アップ」につながる貴重さのある遺伝子組み換え作物の栽培を推進したらいいんじゃないかという意見があったりするが、 …でもそれにしてもああ言えばこう言うで簡単にカウンターされてたりする。
医薬品目的の組み換え『分子農業』に不安の声:2001/11 ワイアードジャパン
この手の運動者の語りは、そこらの消費者の感覚からはちょっとかけ離れている気はするが。
現段階の日本で遺伝子組み換え作物(GM)を推進したいと考える農家当事者は、すなわち他より抜きんでて自己利益を優先したい、他の論理や他者感情をさしおいてでも当面の利潤追求をしたい、そういう利潤思考の人だからこそ、GMに手を出すことを考えるのだと当事者インタビューからも推察しうる。
だとしたら。
「長期的視野に立って損を厭わず採算のとれない健康GMをまず作る」という一種奉仕的なアイデアは、よほどのことが無い限り採ってはくれないだろうし。
なお、GM問題を語る際には
GMOに対する一般市民の認知に関する10の神話
はまずチェックしておくべし。
…これ見て理解しにくいと思う人の場合、いっそのこと、GMについては語らない、という選択肢も考えるべきだろう。
他の視点を読み合わせる場合、極端な主張の本は巷でたくさん見つかるだろうし、私的には
↓あたりをオススメしたい。感覚がしごくまっとうっぽくて好きな一冊。
著者はキャッサバ育種研究の第一人者@神戸大学農学部教授
「“自殺する種子”— 遺伝資源は誰のもの?」 河野和男著 新思索社 2001年
へぇボタン:へぇ〜
と押してみるもよし情報庫: 遺伝子組み換え サイエンス・スタディーズ ネポティズム
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