つくられる命と葛藤の増殖
子どもに「自分の子どもではない」と伝えることが、なぜ抵抗のある行為になっているのか。
血縁の有無に関わらず、納得できる役割モデルが用意されていないのはなぜか。
![]() 「つくられる命 AID・卵子提供・クローン技術」 坂井律子・春日真人著 日本放送出版協会 2004/05 |
2001〜2002年に、NHK教育&NHK総合で放送された一連の生殖補助医療(いわゆる不妊治療)レポートの取材班による一冊。
坂井氏は、前にもNHK番組がらみの取材成果をまとめている。

「ルポルタージュ出生前診断:生命誕生の現場に何が起きているのか?」
坂井律子著 NHK出版 1999
この前著「ルポルタージュ出生前診断」では
出生前に堕胎される難病者 : 難病であれ出産する自由はある
↓ ↓
難病者が減る → 難病を診られる医者がいなくなる
↓
現存する難病者の生活がさらに困難になる
というかなりショッキングな問題(@ 二分脊堆症)が指摘されていた。
今回の著作「つくられる命」では、”試験管ベビー”(の中の匿名の精子で生まれた子)のアイデンティティと関係者間の納得(家族内の語り)に、焦点が置かれる。
夫婦以外のタネを使って生まれた子。
父親以外の精子で生まれる人工受精児が、普通に存在していることを知らない人々。
自分がそれであると知ったとき、何が変わって何が変わらないのか。
誰の精子かわからない。
自分の半分は誰なのか。
さらには人知れず、自分の異母兄弟が各地でばらばらに生きているという事実。
家族との関係。
出自を隠すことは家族内の欺瞞(ぎまん)、虚偽、背信なのか。
知ったことは明らかにできるか。 できないとすればそれはなぜか。
家族内コミュニケーションの問題だけに帰せるのか。
民族との関係。
カナダでは学校で「自分の民族的ルーツは」みたいなレポート学習が普通に課されていたりする。その中での、自分の半分の出自がわからないという混乱と欠落感。
アイデンティティも民族も社会的構築であるとはいえ、社会が生物学的・社会的出自とアイデンティティの連結をうながしている場では、心的負担も重くならざるをえない。
なぜ人間は自分の出自に拘泥(こうでい)してしまうのか
こうした拘泥も、社会的に構築されている強迫観念なのか
個人 ではなく、代々の流れの中の一滴
個人 ではなく、社会の中の1パーツ
もとは、社会的に何かになれない「苦」から、逃れるために「産んだ」何か。
その産まれた何かが、その出自ゆえに社会的におさまりがつかず苦しみを抱える。
もとは社会から貶(おとし)められる何かを、救う、という体裁で生まれた生殖補助技術。
その「救いの技術」で生まれた何かの、居場所や役割モデルが、社会にない。

何かから救われたい:そう感じたその時点で、これは人工生殖ではなく精神保健やカウンセリング、コーチングの対象だとは考えられないのか。
他の命を作るか作らぬかの前に、まずその心のありようは省みられないのか。
理不尽さに関わらず、この現世の欲は欲のまま尊重され推進されるべきなのか。
心と欲を同一視していいのか。
くびきからは自由でありたいと同時に、くびきに認められることによって解放される(と思える)なにかがあることも慥か。
くびきを認め温存することによって、くびきに認められない他の存在をいやましに貶め続けることになるのも慥か。

著者はこの本の締めくくりで「生殖医療」全体を覆うヴェールの存在を指摘する。
生殖補助医療は「わたくしごと」であり、ある部分、社会全体で議論することから「外されて」きたのではないか。
ん? それっていったい誰の「わたくしごと」なのか。
比較の上で言えば、女性は不妊であることに公に対処できる。
それに対して、男性は、繁殖能力の有無を秘めやすい。
自分に生殖能力がないとわかると、一人で引きこもって落ち込みやすいといわれる男性。
はらませる能力の有無が、人間としての存在価値に直結しがちなオトコ。
夫婦ではなく、男にとっての、「わたくしごと」になってはいないか。
この点は、別エントリの 「不妊と男とその呪い」 と考え合わせるとさらに興味深い絵になるわけで。
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