この上ない悲しみと覚悟の進化心理学
極めて現代的、実際的、おのれを踏まえた救済論と心のいやし。
その第2弾。
![]() 「愛する人を失うとどうして死にたくなるのか 「《うつ》から自殺へ」を「生きよう」に変える力」 下園壮太著 文芸社 2004/12 |
この本は 「防衛庁経由・うつ病救済行き」 で紹介した「人はどうして死にたがるのか 「自殺したい」が「生きよう」に変わる瞬間」の姉妹編というか、表裏一体の書。
前の「人はどうして死にたがるのか」は、死ぬほどうつな感情に苦しんでいる人の周囲の人が、その状態を理解し救済できるよう記された本。
自分以外の人間を理解するための本。
で、今回の当該書「愛する人を失うとどうして死にたくなるのか」は、苦しんでいる本人が、自分の状態を理解し、危ない状態に陥らないよう希望をつかむための本。
自分が陥っている状態を理解するための本。
本人以外:周囲の人間がどう対処すればいいか。
本人自身:本人が何をどう踏まえて危機をやり過ごせばいいか。
これはいっしょくたには述べられない。
べっこの語りで伝えないと効くどころか逆効果になりうる。
で、もとは一つの本になるところだった内容を、この2冊に、読者想定を周囲向けバージョン・本人向けバージョンと別個にして著した。
これは正解。正しい判断。
2冊は少なからず内容がかぶっている。
前著「人はどうして…」と同じように「愛する人を失うと…」にも進化心理学的(進化精神医学的)感情の機序解釈・講釈が登場する。
進化心理学的解釈の妥当性検証はこのさいよっこしておく。
市井生活への応用としてみるぶんには、じゅうぶん及第点だと思うし。
当該書「愛する人を失うと…」のほうで特筆すべきは、民俗宗教的慣習の心理的適応性について少なからず述べてあること。
こんなことは絶対ドーキンスはやんないだろうな〜 
葬儀をとりおこなうこと、法事を繰り返すこと、喪に服すること、これらは旧態然な蒙昧慣習などではなく、心的ダメージを受けた人間が、その影響を比較的すみやかに回復させる上で、しごく効果的な、理にかなった慣習なのだと。
荒ぶる心を鎮めるための儀式。
「日本人が共有する死の物語」 これにも通じる。
心的ダメージをおさめ鎮(しず)めていく儀式。さいです。
葬儀や法事はないがしろにしたらあかんねや。 どなたさんもちゃんと済ましたりや。
ろくに別れの挨拶もなく、あと語り合う儀式も邂逅(かいこう)もないままに独りでほうられてると、だれかさんみたいにウン十年経とうがいっこうに癒えないどろどろにねっとりまとわりつかれたまんまになっちまいますぜ。
で、初七日、四十九日、一周忌… みたいなかんじで当該書の内容も心の状態の変遷に従うように、直後、数週間後、半年以上経ったあと、一年以上経っても苦しい場合、と、時期ごとに区切られて解説されている。
まあ、とにかく そうそう。
進化心理学かじった人間は、宗教や民俗的慣習を否定したらあかん。
偉そうにしているドーキンスはんのケツほいほいついてったらあきまへん。
古来の慣習は、それなりに人心に適応的であるからこそ、成立し保持されてきた。
かねがね宗教をはなから蔑視するドーキンスのほりえもんみたいなずけずけしさがキモかったので、進化心理学好きの中にこの著者のように法事や忌みの意義をそれなりに尊重してくれている人間がいることが、個人的には大変ありがたい。

ほか、罪悪感が生じる機序(自分のせいではないのになぜ自分を責めるようになってしまうのか)、ペットの死に強いダメージを受けた場合(人間なみに供養の手順を踏めば乗り越えられる)など、実際的かつ心休まるアドバイスが並ぶ。
愛する人を失うと言えば、失恋もあり。
失恋が苦しいわけ、なんてのも進化心理学を使って講釈されていたりする。(100人程度の小集団で暮らしていた古代世界では恋愛できる相手がすごく少なかったのでそのぶん必死になるような脳にできあがってきた:恋愛相手がふんだんに選べる現代になっても当時の必死癖が抜けてないだけ)
おしむらく、苦言を呈するならば、進化心理学的感情システムの機序講釈が、…やっぱ受け入れがたい当事者もいるんじゃないかなぁと。
悲しみのプログラム、驚きのプログラム、防衛プログラム、パニックプログラム… 万人向けとは言い難い。
自分の中の感情と事件を、それなりに市井的に運命や意味づけをして対処解釈している本人に、いきなし、こうなんか、それあんたの中のバグだよ、もともと脳にそういうシステムがインストールされているんだよ、みたいに言ってしまうと、違和感バリバリでかえって困惑する人もいるだろう。
じいちゃんばあちゃんとか、信仰を持っている人とか、個人の思いを大切にするタイプの人、古来の価値観を大切にする人…には。そんなドライな物の見方をされてもかえって心情の尊厳を足蹴(あしげ)にされた、みたいな、ね。
「人はどうして…」のときにも記したけれど、人心の反応を画一的プログラム呼ばわりする手法は、やはり「組織人間」向きかなあと思う。
企業サラリーマンや自衛官。
何かの基準にすすんで自分を適応させる志向がある人々。
組織が提示する物の見方を積極的に消化する、それをよしとする人々、彼ら向き。
で、この著者が偉いのは、この本を著したその限界も認めているし、必要悪として書かざるを得なかった旨を、その自分の心情をきっちり表明していること。
「愛する人を失うとどうして死にたくなるのか」
p.234-235
人の心を軽くしたい、これはカウンセラーとしての私の気持ちです。
実践の場では、そのクライエントを知り、そのクライエントに必要な援助をすることができます。
ところが、本という手段をとると、多くの人に”苦しみからの脱出のヒント”を差し上げることはできますが、逆に必要のない情報を与えることもあります。〜中略〜
クライエントの悩みは千差万別。また読む方も、それぞれの読み方をします。
私の書いた内容が十分なアドバイスにならない場合や、むしろ逆に、読者を苦しめてしまうことさえあるかもしれません。
しかし、それでも私は本を書く必要があると感じています。
それは、私のカウンセラーとしての実践の中で、愛する対象を失って苦しむ人(私の場合は自殺で失った人が多いのですが)があまりにも多く、その人たちに「このことを知っていれば、まだ苦しみとうまく共存していけるのに……」という知識を与えてあげたいと感じているからです。〜中略〜
読者一人一人の苦しさに対応していないかもしれない。自分の表現力の不足で、十分に伝わらないかもしれない。それでも私は、愛の対象をなくして苦しむ人々と接するたび、自分が得たものを伝える必要があると感じるのです。
人心も、倫理もそうだけど、画一的に処理できるもんじゃあ到底ない。
あの人に良い効果を及ぼした書き物は、あちらの人には猛毒になることがある。
個人個人、各ケースごとに、細やかに臨機応変に適切な対応で導きと癒しはほどこされねばならない。
法だの、制度だの、多数を相手にした画一処理は、少数の何かに危害を及ぼしたりとりこぼして排除破棄したりしてしまう。
個々を救うにはその個々を見なければろくなことにはならない。典型を想定して対処していては救えないことが多い。
書いたものが、この画一が、害を及ぼすかもしれない、でもその限界と悪を敢えてかぶることで、志と誠意を全うしたい。
いい人だと思う。
こういう香りが、屹立(きつりつ)した覚悟が 私は好きだなぁ。 
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