嫌社会学こうだ
『反社会学講座』がらみの続き。
なぜ社会学がキモイのか。
なぜ社会学よばわりされるとキモイのか。
なんでだろ〜。
誰もなんも言ってくんないのでひとりで朧な絵をいじくりまわしてみるが。
少なくとも 『反社会学講座』は、
「本書を読んで笑う人は、正常な頭脳と自由な精神の持ち主です。
反対に、怒り出す人は、学力低下および判断力停止の末期症状で
あるおそれがあります。(同書p.17)」
云々というウルトラ無責任煙幕宣言ページの前に載っている、
「なぜ社会学はだめなのか」
という冒頭の章は、面白かったし勉強になった。
まえまえから社会学とは何なのか、なんで自称社会学の人物は
相手の状況や真意を確かめずに自分勝手な思いこみで
一方的に突っ走ったりケンカふっかけたりするのか、
それがすごく不思議だったので。
社会学者にケンカふっかけられたことはないが、自称社会学の素人さんからまとはずれなケンカやいちゃもん、はてはラブレターまでいただいたことはある。いずれも「相手の状況を確認せずに」一方的な思いこみと決めつけでいきなし突進してきてくれた人々である。結果は自称社会学人間さんのトンチンカンなひとりずもうなわけで、あとが気まずいったらない。
冒頭の章「なぜ社会学はだめなのか」の一項目め:簡単に言うと
「まず社会学は敵を見つけることから始まる」
そうか。
対立か、味方か、そのどっちかしかないのか。
だから彼らは最初から、敵呼ばわりか同士扱いか、になっちゃってたのか。
二項目め。個人的な感情論でかまわないから仮説(こじつけ)を作る。
「社会学にかぎっては、仮説と結論は同義です」(同書p.10)
そうか。
仮説と結論は同義っつーか、そのへん省みることを奨励しないから、彼の人たちは「相手の状況を確認せずに一方的に決めつけ」なさって下さってたのか。
突進なさってきたお方がたに、「なぜまず相手の状況を確認してからにしようとしないのですか? なんでそんな勝手に決めつけることに抵抗がないのでしょう?」と尋ねたこともあるけれど、なんかキョトンとされただけだったような気がする。
念のため駄目押しに注記しておくと、私は社会学の学者さんとはおつきあいしたことも連絡取ったこともない。だから社会学の学者がどんな種類の人々でどんなエートスをお持ちかは知らない。
ここで私が指す【自称社会学さんたち】とは、「私は社会学(もしくはフェミ系)の人間ですが」みたいな前ふりを伴ってアプローチしてきた、たぶん学徒や社会学ファンさんたちのこと。
ここは混同しないでほしい。学者の例は把握していない。
「なぜ社会学はだめなのか」にはまだあといくつか項目が並ぶが、私には上掲の二項が「おーおーそれそれ!」だったので感じ入ったね。

『反社会学講座』
p.013
社会学は非科学的な学問なのです。他の学問では「こじつけ」と非難される論説も、社会学では「社会学的想像力に富んでいる」と称揚されます。
p.014
例えば、日本に生息する蝶は二六〇種だ、という研究結果があるとします。これは科学的です。そこには妙な偏見の介入する余地はないからです。社会学ではどうでしょう。調査結果をもとに、フリーターが二〇〇万人いる、という事実をはじき出すところまでは、たしかに科学的です。が、問題はそのあと。なぜか社会学者はその事実にゆがんだ視線を送り、研究結果に善悪の判断を加えるのです。
p.015
民俗学や文化人類学では、研究者の勝手な倫理的判断が禁止されていて、それぞれの民族や地方に固有の文化・風習を尊重します。文化人類学で「あの部族は裸で野蛮だ。アメリカ人より劣っている」などと発言したら、袋叩きの目にあいます。社会学にはこのタブーがありません。
さらにひとしきり。
突進さんたちは、仮説と結論が区別ついてないし、こじつけにも抵抗がない。人間を「敵・味方」「善・悪」に分けることもためらいがない。
さらに。
彼らには民俗学や文化人類学的なスタンスの言論も社会学と一緒くたに見えるのか という危惧が。
区別わかんないんじゃないか?
実際問題、社会学好きのフェミニストが文化人類学のコース採って教授陣にゴミ扱いされてた例がある。そのフェミさんには全然文化人類学的な礼儀というか、流儀が理解してもらえなかったらしい。フィールドワークに行く前から持論を結論扱いするわ、最初から搾取だの未開だの自文化中心主義ばりばりで現地民を「啓蒙」しようとするわ、とうていつける薬がない状態。
私は。
民俗学や文化人類学のシンパだ。
社会学の人間ではない。
プロでもない。
ここはあらためて言っておくし、あとでぼやき加筆しておいたほうがいいか。
あいにくいまどきは文化人類学はあまり流行んないみたいで、文化人類学も社会学化しつつある、という話も耳にするし、正直、なにがどう文化人類学が社会学に向かっていなさるのか部外者(いや、私だけ?)にはよくわからないんだが、でも、文化人類学が「仮説を結論扱い」し、「はなから自分の側の価値観を相手に押し付けて解釈する」ことをしたらそりゃもう全然文化人類学じゃないし、とうていまっとうな学問じゃないっしょや。
で。
昨日のエントリ 『反と言う前に社会学がよくわからないので』の続きとして。
うちのブログが社会学っぽく見えるというのは、
●これは私が社会学シンパみたいな非道な行為をやってしまっているから?
だとしたら、わたしゃ厳に反省せなならん。
わざとではなくマジそんなオオボケをかましていたのか私は。
●それとも通りすがりにはなんでも社会学っぽく見えてるだけ?
いっしょくた扱い?
文化人類学的な礼節(decency)自体、全然世間は頓着してないし忘れ去ってる?
常に、自分が悪人である可能性の中を歩むこと。 「時代の不幸、時代のくびき」
なんかもうすこし書くべきことがあったような気がするのだけれど……
文化人類学ファンな人のブログってあまり数ないよね。
実際少ないのか、社会学よりつつましいだけなのか。
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コメント
このサイトが社会学っぽく見えるというような事を発言した人が果たしてどこまで学問に踏み込んだ人なのか?
社会学というのがどういう学問で学問の中でどういう位置にあるのか把握していたのか?
はたまたこのサイトをどれくらい読んだ人なのか?
単に私のように学問や読書と縁遠い人が、世の中の仕組みみたいな事について考えるきっかけをくれたものとして同じように感じたのかもしれないですね。
社会学には芸能人的に有名な宮台さんという人もいらっしゃいますし、ネット上でもソキウスというサイトで色々読めるようになっていたりしますし、知名度は高いのかもしれないですね。
色々ものを考える事を全部「屁理屈」と言ったり「哲学」と言う人も居ますからね。
かく言う私もどういう学問がどういう風に生まれどんな立場でどんな事をやってるのかよくわかりません。(恥
投稿: hatene | 2005.03.24 06:12