時代の人格障害とトンデモ本
社交力障害? 適応障害? 扁桃体(へんとうたい)障害?
人格障害という呼称は何か違うなぁと思いつつ、気持ち悪さでダントツなトンデモ本
を含む人格障害本を三冊。
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さて、この3つの中でどれがトンデモ本でしょう?
見た目じゃわからないですね〜。

まずこちら。
岡田尊司著「人格障害の時代」
わりと普通にまっとうなご本です。
DSMに沿う形で人格障害の類型を説明し、生育環境の是正で症例はある程度減らせるのではないかと見る。
特徴は、人格障害を「自己愛に障害がある」状態(我執/がしゅう)だとみなし、何より今の時代の大人の多くが未熟な自己愛のままだと見る。大人がすでに人格障害的におかしくなってるから、一貫しないしつけとご都合主義な社会観で育てるから、自己愛がゆがむとする。
いきおい、救済には「育て直し」を視野に入れている。
従前の世界観に居る高齢層には、しっくりくる解釈ではないかと。
この著者も、症例群を「人格障害」と呼ばわることには抵抗を示している。
岡田尊司著「人格障害の時代」 p.44
「人格障害」という用語には、誤解を生みやすいニュアンスがあり、かつての「精神分裂病」と同じような語感の問題があると思う。「認知行動障害」「持続性適応障害」といった、まったく別の用語を用いることも検討されるべきだろう。
著者は人格形成には「しっかりとした枠組み」、世界観、規範が必要だと考える。
治療や状況改善にも、周囲と本人の関係枠をしっかり形成してから臨むべきだとする。
ひいては、
「統制力の乏しい、自由度の高い環境におかれるほど、
もともと人格障害的でなかった者まで、
人格障害のように振る舞い始めることもよくある。」(p.170)
と述べ、社会的規範の崩壊・ゆるみが、自己愛障害(未熟人格のまま成人する)の増加をもたらしているのではないかと推察する。
「自己愛の障害」をカギにすべてを解こうとしているので、こういう話も出てくる。↓
岡田尊司著「人格障害の時代」 p.186
この社会において、自己愛と貨幣は、交換可能な、限りなく等価なものになろうとしている。自己愛は、結局、貨幣の多寡でその価値を測られ、貨幣によって充足を得る。資本主義は、自己愛を、貨幣化してしまったのである。
…他者愛まで、貨幣化していることがある。
こないだ、現に障害児をお持ちのお父さんが、「国の福祉予算は限られているから、障害者の誕生は減らしたほうがみんなの利益になるのに、なぜ障害者団体は着床前診断に反対するのかわからない。」との旨おっしゃっていた。
当のお子さんにも、これを言うんだろうか。
「金を無駄に食うこの子は産まれるべきではなかったのだ」と言うのと同じ意味になってしまってないか。「金を無駄に食うおまえは産まれるべきではなかったのだ」と我が子に面と向かって言えるお父さんなんだろうか。お父さん自身、このことに気づいているのだろうか。

次は舶来本で「反社会的人格障害」限定。
「社会悪のルーツ ASP(反社会的人格障害)の謎を解く」
邦訳のタイトルはヘン。
本書は、反社会的人格障害イコール犯罪ではない、と釘を刺している。だのにこのタイトル。
原題は「悪い男の子、悪い男たち」。
やらしく煽(あお)るようなタイトルとは裏腹に、内容の筆致はすこぶる冷静にかみくだいて述べてくれている。
症例はどのようなものか。
どのように定義がなされてきたか。
これまでの研究経緯はどのようなものか。
生育要因、脳の障害の可能性、その者の人生はどのようなものになることが多いか、改善した例にはどのようなものがあるか。
この本でも、「枠組み」の重要性が指摘されている。
ドナルド・W.ブラック著「社会悪のルーツ」 p.126
行為障害のある子供がしだいに改善していくかどうかには、なんらかのグループに対する所属意識を発達させることができるかどうかが決定的な影響を与えている。その一例として、友人づきあいができる非行少年のうち五八パーセントが更生できたのに対し、友人づきあいができない者で更生できたのは三七パーセントだけだったという調査結果もある。
逆に言えば、思春期に徒党を組む体験をしていない者は、ヤバイかもしれないと。
イニシエーションの適応性
治療の難しさは再々述べてある。
障害者本人は、たび重なるトラブルを周囲のせいだと考え、自分に原因があるとはみなさないために、自ら治療に来ることはないし治療の必要性を認めさせることも困難であるという。
しかし。
この本は、施療者や研究者にはともかく、心構えや知識は与えてはくれるけれども、一般人や身内に何ができるのか、はほとんど教えてくれない。指南がない。
その点、前述の「人格障害の時代」は、反社会性人格障害について下記のように述べていて、周囲の人間にかなり有効なヒントを与えてくれている。
岡田尊司著「人格障害の時代」 p.98-99
「散々困らせてやったのに、母さんは俺のことを今でも信頼している。それが、鬱陶しいです」と、語った言葉は、彼独特の裏返った言い方を翻訳すると、少しは俺のことも、心配してくれているとわかって、まんざらでもない気分だよと、私の耳には響いた。
反社会性人格障害の人の文法は、肯定と否定が逆になる。そのことを弁えずに、当人の言う言葉を額面通りにとっていけば、冷血な極悪人以外の何者でもないという結論に、容易に到達する。そうした否定的な眼差しで接していくと、当人は、まさにそうした人物となっていく。自分に投影された悪を、彼は喜んで引き受けるのである。
反社会性人格障害の人は、自分がすべてにおいて否定されてきたと単純化して、過去を捉えている。そこから、彼は復讐というテーマに、自分にアイデンティティを見出すのであるが、否定された歴史というのは、一面的な思い込みでもある。それは、社会が彼を救いのないやつだと思ってしまう思い込みと、同じ性質を持っている。
読み過ぎかと思うくらい、なんか深い。
そこまでしてついてきてくれるのか、この感じは 救急精神病棟 に通じるものがある。
死刑になりたがった人物は、誰かに「あなたは生きていていい、生きる価値がある」と止めてほしがっていたのではないか。「生きるな、不要だ」と言われ続けてきたその扱いに素直に従っていただけなのではないか。そんな。

さあ〜。これはキモいぞ。
トンデモ以前に読み手に不快感を与える記述がてんこもり。
なによりこの著者、自分の不手際を相手のせいにしてののしりまくる。
ヨソの病院を紹介したらそこで患者がひどいことをされた、ひどい病院があるものだ。
あんたの交渉能力がダメダメだからじゃないか!
ヨソの精神科医は新薬を全然使わない。自分は日本一使っている。
それってそういう論理で自慢していいシロモノ!?
厚生省はお役所仕事ばかりで全然新薬を認可しない。
認可させる交渉力がない自分を責めろよ
ヨソの精神科医が偏見を助長させている。
偏見だらけの記述をしているのはあんた!
人格障害=テロリストのごとき書き方をしてるのはあんたです
ヨソの精神科医は「病気は診れても、人は診れない」やつらばかりだ。
あんたがヨソさまの人の心理機序を見てないんじゃん!
ものすごい天にツバしまくっている。
でもってそれに気がついていない。 いや〜すごいな〜。
何より面白いのは、これがまるで人格障害みたいで。
他の本の著者の記述、
岡田尊司著「人格障害の時代」
p.17
あくまで、子供の問題として片付け、自分自身の問題に気づかない、あるいは、気づこうとしない親が少なくない。「親をこんなに苦しめて」と子供を罵っている親は、ある意味、自分で投げ上げた石が頭に当たったと、怒っているようなものなのだが、自らが発している罵りの不当さには気づかないのである。
p.41
人格障害の人が、同じ失敗を何度でも繰り返し、それでも、そのことに気づきにくいのは、躁的防衛や妄想・分裂ポジションによって、自分の問題に向かい合うことを避けているためである。
著者本人(「人格障害」の定塚甫氏のほうね)がこれにずっぽり当てはまってちゃまずいでしょ。
書名を「人格障害」としておきながら、人格障害の定義は説明してないわ、人格障害にどんな種類があるかも頓着せず十把一絡げ、勢いでなにやらうつ病までいっしょくたに述べはじめるわ…。
そのへんの中途半端なブログ以前のレベルかもしれない。本にするなんて…。
文中の端々で対人交渉能力の低さを露呈してしまっているのに、りっぱな院長さんだってことは…もしかして最近この著者に何か性格や行動の変化は起きませんでしたか?
この著者、去年当該書含めて3冊いきなし本を出している。
人格障害は胎内ではじまるんだそうだ。
持論を掲げて突っ走っているらしい。
誰か止めてやれ。
止めてくれる「社会的枠組み」がないと人間は人格障害っぽくなっちゃうという話だしね。

…まじめな話に戻るとして。
原因は遺伝か環境か。
「社会悪のルーツ」 は、そういう区分けは意味をなさないだろうと指摘する。
ドナルド・W.ブラック著「社会悪のルーツ」 p.145
仮に遺伝的にASPを伝える因子があるとすれば、それを持っている子供は、親の虐待(環境要因)に対して、ASP的な傾向(遺伝要因)をもって反応することが考えられる。そして、問題行動が代々伝わっている家系では、「遺伝子」も「環境による影響」も、ともに伝わっている可能性があり、そのふたつをはっきり区別することは困難だ。そこで、人間に伝わる性向の原因探しは結局このふたつの中間をとり、要素はその両方から来ているのだろうというあたりで落ち着くことになる。
環境と性根の相互作用。
その結果としてある我々。
「先天的犯罪者とMAOA遺伝子」
とはいえ、我々が手を下せるのは遺伝の部分ではなく環境の部分であるわけで。
「人格障害」の著者は、しつけのせいだとする。
「人格障害の時代」も生育環境にしっかりした枠組みが必要だとする。
いずれも、少なくとも、環境要因を改善すれば、障害の程度は重くはならないだろうとするのだが、これ、下手すると一昔前に自閉症が「親のしつけのせいだ」と言われていたその二の舞を呼んでいたりはしないだろうか。
環境=親???
今回挙げた三冊に共通して欠落している視点がある。(言及はあったかもしれないがフロントには出ていない)
ご近所はどうなのかという点。
地域ぐるみの共同保育が心的に良い栄養になるし、昔ながらの人間の暮らしは、親以外も寄ってたかって次世代にちょっかいを出していた、地域ぐるみで育成していた、共有できる枠組みを与えていた。
そこをすっとばして、視点を「親の行為」や「学校」に限定してしまうおかしさは、省みられていない。
…これは。
…もしかしたら、彼ら精神科医が、地域から遊離しているから何も言えないゆえ?
地域と共同して、人格障害が生きやすくなる枠組みを用意することは、しいては地域全体の精神保健にも貢献する、ちがう?
「人格障害」の著者は、障害者と健常者を分離していることがそも悪いのだとまでおっしゃっているのに、自分は地域に何をどう働きかけているのか何も気配なし。
ドナルド・W.ブラック著「社会悪のルーツ」 p.171
だが、七〇年代から八○年代にかけて行われた新しい研究によると、子供にとって決定的に重要なのは、「その子供にとって特に重要な存在となる大人」との結びつきを持てるかどうかであり、その対象は必ずしも母親でなくてもよいことがわかってきた。つまり、父親でも、祖父母でも、あるいは血がつながっていない親代わりの人でも、しっかりと心の絆が結べて、人間関係の姿を示すモデルとなり得る人ならだれでもかまわないのである。そういう大人との「重要な心のつながり」を子供から奪ってしまうと、その子供は大人になってから他人と愛情と信頼感のある人間関係を結んだり、人をひどく扱った時に罪悪感を感じることができなくなってしまうのだ。
「遺伝要因」があるんでしょ。
育成環境の責任を親(遺伝元)に限ってしまうと、ダメージがダイレクトでしょ。
ご近所が寄ってたかってくれれば遺伝で受けるダメージも減らせるだろうし、親になつけなくても、じいちゃんばあちゃんなり、近所のおばさんなり、代打の人がいてくれるかもでしょ。
それでも、地元の地域と何をやっているのか、私の読み方が悪いのか、3冊の中に地域への働きかけについての言及が見つからない。
「ご近所関係が成り立たないゆえに人格障害っぽい育ち方をする人間が増えた」から”時代の病”なんでしょ。

岡田尊司著「人格障害の時代」は、人格障害の人とどうつきあえばいいか、われわれ一般人がどう対処すればいいのか、を述べてくれている。
日本の状況に即しているし、この三冊の中では、「人格障害の時代」に軍配。
ほか「人格障害」関係エントリ:
「人格障害という命名の暴力と位置関係」
「人格障害という輸入概念と文化心理学的解釈」
へぇボタン:へぇ〜
と押してみるもよし●情報庫: 人格障害

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コメント
人格障害と言われるようなものやそれに近い扱いをされるものがコミュニケーション戦略の問題だとすると、
親とか教師とか近所の大人がフォローできる範囲というのは
極めて限られているような気もします。
なぜかと言いますと、コミュニケーションの訓練と実践の場は
主に同世代の人間との関わりの中にあると思うわけです。
それに子供は、進学だの塾だの遊びだので、いずれ見知らぬ他人ばかりの集う街へ出て行きますよね。
投稿 hatene | 2005.03.17 01:02
…? あ、hateneさんでしたか。
「いずれ見知らぬ他人ばかりの集う街」は都会を想定していますか。
都会もなかなか心に悪い場所ですよね…
「同世代の人間との関わり」はいわゆるギャング集団ですね。男の子で顕著。
山下富美代編著 「図解雑学 発達心理学」 ナツメ社 p.148
>小学校5、6年生になると、ほぼ同年齢の子たちからなる
>まとまりの強い閉鎖的な集団をつくるようになる。
>このような集団をギャング集団とよぶ。
>そして、この集団は青年期になる頃には消えていく。
ギャング集団は文化的にあらかじめ枠が用意されていることが少なくない。各地各国の若者組、青年団とか。
特定の時期に徒党を組んでしまう性質が人間にあるなら、無軌道に自然生成されるよりは文化環境に適した枠があるにこしたことはない。
NHKのご近所の底力では、地域のイベント(肝試しやスリルゲーム)や奉仕活動をやる未成年の自主的な活動組織を用意してやると、非行に類する行動(迷惑なわるさ)が減るという話を紹介していた。
で、こういう地域組織や同世代の人間と関われる場があってもなくても、結局ダメな例はある。
「社会悪のルーツ」p.126
> 問題行動の種類に関わりなく、友人づきあいができる子供は、
>親しい友人たちと精神的な結びつきを作り上げるが、友人
>づき合いができない子供は孤立しがちだ。非行少年を十年間
>追跡して行ったある調査によると、友人づきあいができる
>非行少年は、できない非行少年と比べて、その後刑務所に
>入ることになる確率が低いという結果が出ている。
地域組織で軽減するのはおぼろに”人格障害的”な行動だけかもしれない。本格的な病膏肓になっている障害には効かないのかもしれない。
私的には「これをすれば治る」「社会の**が悪い」とか論をぶちたいんじゃなくて、単に「必要性の割には精神保健って地元から遊離しすぎていることが多いよね」と持っていってぼやきたかったのでした。
もっと身近に対処の仕方や心構えを指南してほしいなと。
しかし、上掲の「人格障害の時代」p.98-99にはドキッとしましたよ。
あのくだりを踏まえても、どこまで我々素人が、その存在とつきあうことができるのか。
さじを投げたら、罪になるのかどこまでが許されうるのか…。
私は感情操作にからきし弱いのでほんとへとへとになります。(*_*)
投稿 雨崎良未 | 2005.03.17 01:56
ギャング集団について、エントリ独立させました。
→ リスク指向:若気のいたりは25才で一段落
投稿 雨崎良未 | 2005.03.17 23:28
>金を無駄に食うこの子は産まれるべきではなかったのだ」と言うのと同じ意味になってしまってないか。「金を無駄に食うおまえは産まれるべきではなかったのだ」と我が子に面と向かって言えるお父さんなんだろうか。お父さん自身、このことに気づいているのだろうか。
意外と解ってないので、ちょっとがっかり。
多くのお父さんたちは同じ意味だと判っていますよ。
もちろん、面と向かっては言いませんがね。
でも、面と向かって言う、って考え方も不思議。
けっこうステレオタイプなんですねぇ。
投稿 ステレオ | 2007.04.10 11:25