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2005.03.03

死者にたむける無洗米

 無洗米が発売になったとき、「洗わずにたくご飯」に違和感を感じた人はいらっしゃいませんか?

 最近「環境に優しい」として売られている無洗米。

日本人の死のかたち
「日本人の死のかたち 伝統儀礼から靖国まで」

 波平恵美子著
 朝日新聞社 2004/07
 

p.71
 遺体に対して最初に供えるものは、水と「一杯飯」である。なお一杯飯の儀礼は現在でも広くおこなわれている。この飯は通常とは異なり、米をとがない

 これ知ってました? こういう習俗が葬儀に際して行われていたってこと。
 いや、丸くこんもりと全部盛りつけておはしを線香のように刺し立てる、一杯飯のことは私も重々知っていたけど、米をとがずにたくという部分は知らなかった。

 死者に手向けるものであった「米を研がずに炊くご飯」
 それが今、生者の食べ物として普通に奨励されているというわけ?
 「米を洗わずに炊く」という行為からは、すでに「不浄」や「忌み」の意味あいは失われてしまっているんだろうか。
 それともいずれかの地方限定の習俗だった?
 人によってはまだ抵抗を感じる?

挿画

 「ほふり」という名称を出したCMが流れている。
 このネーミングを考えた関係者は日本語に詳しくないのかな。
 でないとこんな縁起悪い名前suji、命名した上に宣伝まで打つなんて…。
 それとも、もうこの日本語の意味も穢(けが)れも、すっかり失われてしまっているんだろうか?

 屠(ほふ)り。

ジェム

 人間の「終わり」、死が、死の意味が、変質し続けている現在。
 昔の基準から見て、忌みも穢れも希薄にないがしろになりつつある現代。

挿画

 葬送の儀礼をないがしろにすると、たたりでなくても人心にダメージを及ぼすことはある。

●葬儀習俗の、人間にとっての重要性について:
  → 「この上ない悲しみと覚悟の進化心理学」
  → 「日本人が共有する死の物語」


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情報庫: 民俗学 


このエントリは旧エントリ 「物語というプラシーボと人生」 の後半を独立させて加筆再録したものです。

メタル

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コメント

 このサイトの紹介で読んでみました。
 日本人が忘れつつある死者に対する儀礼が紹介されていてたいへん興味深かったです。

 死者のご飯はとがないというのは私も知りませんでした。しかし儀礼のエッセンスを抜き出してみれば、「死者は生前とは違う方法で対応する」ということですから、無洗米を普段使っている家では「死者のために米をとぐ」ことにすればよいのではないでしょうか。

 とはいえそういうことができるのは子供のころから一度も米を洗う習慣がない、という時代にならないと抵抗があるでしょうから、あと30年以上はかかりそうです。

投稿: ma2i | 2005.03.20 17:43

すでに我々は古来から伝わる飯・米の意味合いの大半を失っている。
葬送にまつわる民族的秩序も大きく変質してしまっている。
風習を支えるケガレ感は、物理法則のような単純なリバースでは再興しないだろう。
コマーシャリズムによって再燃する習俗もたまにはあるが、こたびの無洗米奨励は加工側の売り手にとって利益であるからこそ押し進められたものであり、その方向から言えば、暮らしの中で基盤を失い消失した「死者のために米を洗うか否か」という習俗は将来復興することはなかろうと思われる。

…今どきなら、洗わず炊きの飯を手向けるよりは、故人のケータイをみなで順繰りに叩き割るほうが、葬送儀礼としてはリアルかもしれない。

投稿: あまさき | 2005.03.21 15:10

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