生成文法のレシピはこちら
いろいろな本をつまんだけど、こりゃ一番わかりやすいと思う。
「生成文法」がこんなにわかりやすく書かれているなんて、ちょっと信じられないくらい。
![]() 「言語のレシピ 多様性にひそむ普遍性をもとめて」 マーク・C.ベイカー著 岩波書店 2003/03 [ Amazon ] [bk1] 原書:2001/The Atoms of Language |
ほかの 「生成文法」本はたいがいやたらこむつかしくてねぇ。
かといって、この本は手抜きに簡単なお子さまランチ説明をしているという話じゃない。
説明の持って行き方がすごいうまいんだ。
化学史(原子の発見)になぞらえる形で、生成文法のパラメータな考え方をとっつきやすく開陳してくれてる。
根幹の要素がレシピとして作用して、言語体系が生み出されてくる。
根幹の要素をアトム(原子)になぞらえているのだが、これは「遺伝子」に喩えたほうがいいんじゃないかと思ったり。「レシピ」のメタファーで遺伝子のほうが使い勝手が… あ。 遺伝子に喩えたら「遺伝」や「形質」のメタファーがくっついてきてよけいややこしくなってダメか。
日本語、英語、モホーク語…
やたらめったらバリエーションに富む人間の言語の種類。
ナンデモアリのように見えるその中に必ず見られるルール、普遍的法則とは何か。
グリーンバーグが見出した45通りの言語の「普遍性」。
チョムスキーの「I言語」と「E言語」。
比較検証対象として頻繁に「日本語」が登場する、そこもわかりやすい。
「多総合的言語」(「世界言語文化図鑑」では「多総合言語」)は話の中でけっこうなキー概念として重用されているのだが、これ検索しても全然ヒットしない。「多総合言語」に至ってはヒットゼロ。
…なんなんだろう。
「世界言語文化図鑑」で言及のあった「回避言語」もヒットゼロ。
……すごい欲求不満になりそ。

で、「多総合的言語」はどちらかというと世界の
比較的に小さな伝統的な共同体で話されている,「地方の」言語
というポジションにあるという。
マイナーな種類の言語体系だと。(だから検索でヒットしないのか???)
これは「多総合的な言語」は大きな国家の共通語にはなりえない”劣った”性質の言語だということなのか。
「言語のレシピ」の著者はそうとは言いきれないとする。
過去に「多総合的言語」で繁栄した大きな国家は存在したし、今でも国家言語として通用はすると。
かえって「多総合的言語」のほうが官僚国家にはむいているのではないかとまで指摘している。
「言語のレシピ」 p.154-155
[言語の]多総合性と社会のタイプとの間に相関があるという証拠はあまりない.ジェロルド・セイドックによると,グリーンランドに国民国家の官僚制が導入されて以来,グリーンランド人は多総合性の使用をへらすどころかふやす傾向にあるという.その方が,官僚はどこでもやることだが,理解が難しい新しい専門用語を作りだすのに弾みがつくからである.
【中略】
世界は狭く,歴史的な偶然が世界全体の見かけを変えてしまうことがあるのだ.
「多総合的な言語」が現在マイナーなのは、単に歴史の偶然のいたずらの一つなのだと。
「多総合的言語」は、その形態上、辞書を作りにくい言語だとのことだが、これはそもそも辞書が「多総合的ではない言語」にとって便利なようにこしらえられているからなのかもしれない。
「多総合的言語」がメジャー言語だったら、辞書という物もはなから全然体裁がちがうものになっていたのかも。
我々は、歴史のいたずらで今「多総合的言語」というやたら面白い言語世界に住む可能性を奪われてしまった。
パラレルワールド?
閉ざされ、なかったことにされ消え去った可能性。
「言語のレシピ」 p.155
モホーク語を話すためのレシピは英語や日本語を話すためのレシピとほとんど同じなので,レシピのほとんどは子どもの頭にはじめから組み込まれていると考えられる.したがって,通常の「学ぶ」ということばの意味で直接の証拠から学ぶ必要はない.先にあげた8つの原理はどんな人間の言語を理解するのにも同じように使えるのである.このような見方では,子どもは,多くのソフトウェアをあらかじめインストールされた状態で工場から出荷されるコンピュータに似ている.子どもは,1つの言語を白紙の状態から丸々プログラムする必要はない.いくつかのパラメータを設定するだけである.コンピュータの「オプション」メニューからいくつかの項目をクリックすることの言語版である.その結果,子どもは自由に言語が使えるようになる.
ぼくらの頭の中に入れうるパラメータのうち、ぼくらはもう「多総合的言語」というパラメータを失ってしまっている、という見方もできるわけで。
可能なパラメータはどのくらいの種類あるのか、あったのか、それも…
「言語消滅=思考の画一貧弱化」
「言語のレシピ」 p.156
多総合的言語のすべてがあと50年かそこらしたら絶滅してしまうということは十分にあり得る.そうなったら,結果として,世界はさらに狭く退屈なところになってしまうだろう.そして,このような興味深い種類の言語を話すことも,人間という存在の可能性の1つなのだということを知ることは,ちょうど,リョコウバトが動物という存在の可能性の1つであるということを知るのと同じように,噂と古ぼけた記録によってのみということになってしまうだろう
「価値」の問題は難しい。
多様性に価値はあるのか。
他の言語が持つ価値は、別の言語との共訳不可能性もはらんで成り立つものなのか。
著者は言語の「多様性」の根幹には「同一性」:レシピやパラメータが潜在しているゆえに、異なる言語の間の共通部分はないとは言えないとする。
「言語のレシピ」 p.292-293
言語的多様性のこのような見方は,言語的多元主義に対するより堅固で積極的な態度を示してくれる.おたがいを理解しようとする努力を怠らない限り,深刻な誤解を生み出すことなく,言語の多様性を維持することができるようになるのである.ある言語が他の言語よりも価値が高いということを言わなくても,それぞれの言語に価値を与えることができる
それぞれの言語文化尊重の足場を見出そうとしている。
それぞれの言語で見えるもの表現できるもの解釈しやすいものは違っていて、そしてみな、それなりに美しい。
著者は、一つの目でも物は見えるが、世界は二つの目で見たほうがよりよく見ることができるだろうと示唆する。

世界を見る道具は多いほうがいい。
統一理論や統一世界を夢見るのもいいが、この世の森羅万象を、卑小な人間ごときが無理して統一してみたとて、どうせ大量の切り捨てや排除をしてどうにかこうにか体裁を繕ったようなシロモノしか間に合わせられないんだ。
大勢で世界を見るほうがいい。
いろいろな世界に行けるほうがいい。
チャンネルを自由に選べる世界。
それはテレビという枠の中に限られているとしても、生成言語という庭の中でしかないとしても、人間の多様性を十分受けとめてくれる世界でありさえすれば。

これも一応目を通した。
![]() 「言語の科学 6 生成文法」 岩波書店 2004/09 [bk1] (旧版1998) |
はっきし言って「教科書」です。
講釈の前後に要点や課題がまとめてあって、言語研究学徒にはいいかもしれんが、「言語の研究を知ることで市井の人間に何ができるか」という話ではない。
統率・束縛理論、 Xバー理論、 ミニマリストプログラム 、学術理論的な教科書。
「言語の科学 6 生成文法」 p.xvii(まえがき)
生成文法はたかだか40年ほどの歴史しかもたず,しかも,そのほとんどがChomskyというただ一人の天才によって切りひらかれたという,ある意味では不幸な状況にある.その意味で,これからの生成文法の展望はかならずしも明るいものではない.しかし,人間の言語を対象として真に説明的な科学理論を目指そうとする試みとしては,我々は現在,生成文法しか持っていないといえる.
う〜ん、そうなのか。
しかし、よく読めてはいないけど、先日こういう記事が流れていて気になってるんだけど。
生得的文法より言語の自己組織化
2005/02 EurekAlert Linguistic research moving in new direction
2005/02 EurekAlert Natural selection as we speak
これどなたかわかる人もしくは言及した日本文をご存じの方、いらっしゃいます?
「言語の科学 6 生成文法」 p.xv(まえがき)
1980年代におけるこの一つの到達が原理とパラメータのアプローチである.このアプローチでは,基本的に言語機能の初期状態として,可変スイッチ付きの少数の原理の体系を一つだけ仮定する.つまり,普遍文法は人類にとってただ一つで,これに肯定データに基づいてスイッチを設定することにより、さまざまな言語の違いを説明するのである.
ふむ、「言語のレシピ」はこの原理とパラメータのアプローチをメインに記された本ということか。
市井の人間には
「言語のレシピ 多様性にひそむ普遍性をもとめて」のほうがまず何よりオススメ。
いやー、ええ本読んだわ。
へぇボタン:へぇ〜
と押してみるもよし●情報庫: 言語

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コメント
認知言語学的メモさんが「生成文法文献案内」を記して下さっていて重宝です。ドモドモ。
投稿 雨崎良未 | 2005.04.14 00:10