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2005.05.27

白川静記念東洋文字文化研究所

白川静氏の研究所開設 立命館、自ら5000万寄付
2005/05 【日本語記事】  ヤフージャパン(共同通信)

◆白川静◆白川静
本ミニ「漢字の世界〈1〉中国文化の原点 平凡社ライブラリー」 白川静 平凡社 2003/06
本ミニ「漢字の世界〈2〉中国文化の原点 平凡社ライブラリー」 白川静 平凡社 2003/07

 白川氏の厖大(ぼうだい)な知識と慧眼(けいがん)、その粋がコンパクトに文庫でゲットできる。

 今普通に我々が使っている「漢字」、その出自由来をたどれば「なんで今我々がこんな意味でフツーに使ってられるのさ!」と困惑のあまりに腰が引けてしまうくらい、浮世離れしたリアル異文化異習俗がこもった呪術記号。
 陰陽道(おんみょうどう)とか呪文とか、ことさらなことに手を出さずとも、この普通の漢字それ自体が
  由緒正しい魔の文様gakbul

挿画

●「言」の下にある「口」はクチのことではなく、儀式の枢要(すうよう)たる呪文書を入れる「器の形」をあらわしたもの。
 この「まじないの器」を表した「口」は、漢字の様々な箇所に頻出する。
 もとより、漢字に呪的意味合いがあったことをよく示す記号。
 「占」しかり、「器」しかり、「告」しかり、「呪」しかり。

●「音」は神意の現れ。
 当時の世界の神は、荒ぶる力で人の世界を脅かしてくる外部の力たちだった。
 跳梁(ちょうりょう)する邪霊(じゃれい)は、夜の静寂を音で切り裂いてくる。
 「暗」「闇」。
 音だけの世界、すなわち、やみ。

●「若」は、長髪を振り乱して神降ろしをしている巫女の姿。

●「匿」は、巫女が洞穴などに隠れて、祈りを行うさま。
 天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸にこもられたさまを思い起こさせるが、字の起源は中国南部の民のもの。
 日本神話自体、中国経由の神話骨格をいただいているという話はかねてより。

●「右」「左」は、呪的舞踏の際にそれぞれの手に持つ祭器の形状から。

●「我」は、ノコギリ。
 イケニエの羊を殺すときに用いられるノコギリ。
 切り取った肉は「義」。
 ノコギリ+羊。
 おそなえの肉が「義」。

●羊は、審判の儀式で重用されたイケニエ。
 血を採られた羊がどうふるまうかで当事者の命運がわかれた。

下巻57-58
羊神判が実際に行なわれていたらしいことは、善・義・美など価値観念を含むこれらの字が、みな羊に従う字であることからも知られる。

●「氏」は、血を採るための器具。
 おそらく刃物。
 血をわかちあって盟約を交わすための神聖な道具。
 そこから密接な仲間〜血族を表す字として転用されていったのか。

●「在」は、元は呪文の札をほどこした標識柱。
 端的に言えば、猿の惑星に登場した境界標識のごとき。

●「方」は、殺した人間をH型に渡した柱につるした姿。
 外の民族を表す字としても用いられ「異民族の死体は強い呪になる」ゆえに。内外の境界や要所を鎮(しず)めるアイテムとして重宝されていたさまがかいま見える。

 境界の外は魔物が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する恐ろしい世界であり、
  「旅」(氏族の旗を掲げて邪霊の邪気を祓/はら/う)
の際には、厳重な呪的準備と儀式が重ねられた。
   → 2005/04 『境界を鎮める死体の山』

挿画

●「防」は死体を晒(さら)した場所。

●「放」は柱にくくった死体を殴(なぐ)って邪霊を放つさま。
 異族との境界で行う儀式であり、死体の呪力をうかがわせる。

●軍でイケニエの儀式を執り行ったのが師。
 「師」の左半分は肉。 出陣の呪術に用いられる供え物の肉のかたまり。
 「師」の右半分は肉を刺す曲針。

●「宣」はまな板の上に肉を置くさま。
 イケニエを供して、宣告が下る。

●「類」は、犬を焼く祭祀。
 当時は、諸神を祀(まつ)るイケニエによく犬も用いていた。

●「社」は地霊を祀る場所。

●「白」は風化した死体の頭骨。

●「流」は赤子を水に流すさま。 流して…殺すんだろうな、適宜(てきぎ)。

●「安」は、ヨソから迎えた女を祖先の霊が快く迎えてくれるようお願い申し上げる儀式。
 屋根・住居をあらわす「うかんむり」の下に、女が座すさま。

●「産」・「彦」は、額にしるしをつける呪的行為に由来する形状。
 上半分がその文様。
 今の日本にも、赤子の額に「×」や「大」を墨書(ぼくしょ)する風習は伝わり残っている。
 「産」は生まれたときのまじない、「彦」は成人の儀。

●「文」はテキストのことではなく、もともとは死体(!)。
 葬儀の際に、死体の胸に様々な呪的文様を書き加える、その様を表す。

 誕生、成人、死出、いずれも「次なる世界」への移行であり、その移行をスムーズに行うための直截(ちょくさい)的な呪的儀礼として、「鯨面文身(げいめんぶんしん:顔や体に文様を記す風習)」は行われていた。

※ 移行といえば。
 発売中のテレビブロスp.22(キリンジ堀込さん)に、子どもに母乳を卒業してもらう簡単便利な方法として「オッパイに変な顔の落書きをする」という技が挙がっていた。
 【いつもとチガウおっぱい】に遭遇すると、けっこうあっけないくらい、あっさりおっぱいから卒業してくれるのだそうだ。
 人間の → アフォーダンス というか、 → ヒューマンユニヴァーサル というか、自然な反応、心理。
 こう、なんか、鯨面文身の意義だか必然性だかを補強してくれるようなエピソード。

●「臣」は、目をひとつ傷つけ隻眼(へきがん)になった姿。
 片目のものは、神の僕(しもべ)として重用された。

 …ん? 日本のタタラ神などとのつながりがあったりするのかな…

 片目をつぶす習俗もそうだけれど、一時的に体に文様をつける習俗とは別に、一生とれない入れ墨や傷跡を体に施す習俗があった。
 恒久的な刻印は、一生をその階級に置かれることを意味する。

●「童」は、入れ墨を施(ほどこ)した男奴隷。
 「妾」は、入れ墨を施した女奴隷。
 それぞれ字の上半分は「辛」であり、これは入れ墨の文様もしくは、入れ墨に使う針を表す。

挿画

 入れ墨にしろ、イケニエにしろ、儀式にしろ、現世ではもう意味をなさない由来だらけ。
 そんなこんなの呪的な文字(もんじ)が、意味由来をそぎ落とされ入れ替えられして、今しらっと縁もゆかりもほとんどないような世界で、かつてのことを知りもしない人々に、フツーに使われているという珍妙さ。

 今の時代に、かくのごとき重厚かつ意味深な過去を引きずる文字を、ゆかりのない文脈・字義で用いること…
 キーを打つたび、字を記すたび、不遜(ふそん)な冒涜(ぼうとく)か禁破りを冒してしまっているような、知るだに妙な居心地の悪さを感じてくる。

 例えば。
 現在我々が使っている「(^_^;)」や「orz」が、数百年後のアルゼンチンでそれぞれ「ガラス瓶」「舗装」という意味で使われている、みたいな、
    いやもっと呪的なギャップがこもってないと例が悪いかな。
 今現在我々が使っている「卒塔婆(そとば)」や「位牌(いはい)」が、それぞれ日常生活デフォルトで「サンダル」や「ケータイのボディ」として使われてしまうような、そんな。

下巻151-152
 呪術は、経験的な知識や技術を拒否するものではない。むしろそれを成り立たせ、保障し補うものとして存する。すでに広壮な地下陵墓(りょうぼ)を営み、精巧な青銅郵器を制作する技術をもつ当時の人々が、知識的なものを拒否する呪術の世界に、いつまでも安住していたのではない。呪術はその経験や技術の及ばない世界において、さらに根原的にそれに機能するものとして用いられた。そのことは、高度の技術をもつに至った後世においても同様である。

 人間の経験や技術が及ばない部分は今でもぎょうさんある。
 すでに、なまはんかな渉猟(しょうりょう)では、全学問の粋も全社会の動向も見渡しきれないような情報の洪水の中、知らない分野のことを適当にはしょって済ませてしまうのも、十分に内的呪術と言えるだろうし。
 医学や論理が及ばない部分を、人心に即した形で補う冠婚葬祭儀式や代替医療、そして宗教。
 人間ははるか昔から、呪と切っても切れない歴史を築き続け、今もその中に知ってか知らずかどっぷりとひたったまま歩み。

 これがコンパクトさ利便さがウリの文庫になってしまうとは。
 イイ時代(?)になりました。

 お手軽な文庫。
 とはいえあなどるべからず。
 その向こうにはとうてい一見(いちげん)にはうかがいようもないほどの、広範な知識と経験の蓄積が。

挿画

 → 白川静記念東洋文字文化研究所 は白川氏が自ら印税を供して設立された。
 白川氏の知的財産を受け継ぐ人はいるのかな。
 中国の古代文字の研究、これがなぜ日本からなのか。
 なぜ中国の人が記したものではないのかな。
  → 不思議中国『バイオホラーなレトロ中国』
  → 不思議中国『鳥と恐竜、化石の中国マジック?』

 白川氏の研究と知識は、少なからず日本の考古学や民俗学に影響を与えている。
 白川氏の研究と知識を越えてさらなる別解釈や新見解を提示できる猛者は、今後現れることはできるのか、氏の独壇場のようなこの世界…

暗BG

アンカー 【「子供」vs「子ども」論議】

 以下余談。

 どこぞで誰かが執着しているという 「子供」vs「子ども」論議

 「子供」はこどもに失礼だから「子ども」と表記しろだとか、しないとか。

 昔、国語の先生が授業で「桂三枝師匠が使う”お子たち”は理にかなった言葉なのだ」と言ってた。
 「ども」は人の群を貶めて使う言葉であり(手前ども/犬ども)、「たち」がヨソ様の子を指すには正しいのだと。
 その教えから考えると「供」と「ども」どっちだ以前に「ども」そのものがまずいじゃん、とか思うし、それより語源がどうのと言って今の用法を云々するのであればそれこそきちんと「いつの時代の用法がどう今の用法に影響を与えるのか、どこから与えないのか」線引きを考えねば。
 語源さかのぼりまくれば「白」だって不吉だし「文」なんか死化粧だぞ。「教師」や「師匠」の「師」だって今から見れば邪教のカシラ、「児童」の「童」も奴隷だし、「流れる」にしても違う字を使いたくなるほどキモい字だわな。
 「昔〜〜だったから今**であるべきだ」という論法を使う人は世の中各方面にけっこういらっしゃるけれど、その手の論者は長い歴史の中「自分の好みの時代だけ都合よく引っぱり出して強調する」というパターンで動いていることがしばしばで。
 自分の論に都合の悪い時代のことはちゃっかり無視なさってたりするわけで。
 良い温故知新なのか、悪い温故知新なのか、ちゃんと見極めておきたいところ。

 「子供」の字義云々のばかばかしさよ、とか数年前に「子供」vs「子ども」論議のことを耳にしたとき唖然としてしまった私だった。


へぇボタン:へぇ〜 と押してみるもよし

●情報庫: 言語 過去の文化 日本の考古学




メタル


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