脳死と臓器移植の日米カンチガイ
この本は貴重だ。
日本とアメリカの脳死観を比較してくれている。
それも、目からウロコの既成概念壊しこみで。
「脳死と臓器移植の医療人類学」 マーガレット・ロック著 みすず書房 2004/06 原書:2001/Twice Dead |
日本での臓器移植を推進する言説では「西洋では受け入れられているのに」とふる場合が少なくないような気がする。
が。
この本はきっぱり示している。
西洋では「脳死についての議論が全然尽くされぬままに、あっさりスルーされている」という事実。
議論を尽くして、受け入れているわけではないのだ。
議論しているのか、とあらためて突きつけると、彼らはびびる。
「脳死と臓器移植の医療人類学」p.138
[脳死移植の日本の特番を]アメリカの小さな集まりで見せたことがある。そのビデオを見て、ひどいショックを受けた人々が何人もいた。彼らは、移植される臓器がどこから来るのか、それまで一度も考えたことがなかったのである。
はあ???

とっさに想起するのが、アメリカにおける遺伝子組み換え作物の流通実態。
遺伝子組み換え作物が使用されているか否かは、アメリカでは食品には何も書かれていない。
安全だから認可された、だから、わざわざ表示する必要がないらしい。
消費者には遺伝子組み換え食品を弁別して避けるすべはないし、「議論が全然尽くされぬままにあっさり受け入れられている」。

脳死受け入れの是非でもめている日本のことを欧米人は「時代錯誤」とみなしてくれているのだが、それ以前の時点、肝心な点で大きな齟齬(そご:くいちがい) がたちはだかっている。
脳死という概念や判断が妥当だとするその「当然」感はなぜなのか、そこが欧米ではろくに考慮されていない。あらためて考えたこともない。 らしい。
臓器移植用の臓器が「どこからどのような経緯で」もたらされるのか。
そのあたりの把握があちらさんはすっぽり抜けている? 
死者から来る、そこはわかっていらっしゃる。
が、その「死者」と呼ばれているのはどんな状態の人なのか、どんな状態の人を医者が「死者」だと定めているのか、そこを把握していない?
身をよじり動き回る。
「生きている」身体が、脳が示した特定の状態をもってして臓器摘出に供すると定められ。
「生きている」身体に麻酔をかけて。
手際よくピチピチした「生きている」臓器や組織を取り出して。
「死なす」。
そこを、そのリアルな部分を、欧米の人はよく知らないらしい。
知らないまんま、脳死でもめる日本や「後進国」を「時代錯誤」で「遅れている」とみなしてくれているらしい。
なんなのこれは。
「脳死と臓器移植の医療人類学」
p.3
欧米では、専門家たちを除けば、この新しい死についての議論をこれまで行ってこなかったのである。
p.6
[北米では] ニュースになるような臓器移植が行われたときには、メディアが脳死問題を取り上げるが、その記事はほとんど、医学の偉業をたたえるものであり、脳死判定や臓器の摘出の問題が論じられることは滅多にない。
p.09-10
北米では、「脳死状態」という言葉を冗談で用いることがあるが、私たちの多くは、それが実際にはどういうことなのかあまり分かっていない
わかりやすい。
著者は指摘する。
「脳死」の実情を知るとギョッとするアメリカ人は少なくない、日本で交わされている脳死論争の内容を知ると、「遅れた文化」と蔑むどころか「脳死とはそんな問題があったのか」といまさらに驚く反応を見せる西洋人たち。
このあっさりとした、しかしきわめて重要な指摘。
日本の脳死論争は遅れていて追いつくべきなんじゃない、論争をはしょった欧米がそもそもズレているんだ。
なんとも実に溜飲/りゅういん/が下がる思い。
「脳死と臓器移植の医療人類学」p.320
なぜ、合衆国、カナダ、そしてほとんどのヨーロッパ諸国では脳死の概念がすんなり受け入れられ、脳死体からの臓器摘出が行われるようになったのか、ということに対する明確な答はない。

過日の NHKスペシャルにおける中絶胎児組織を用いた先端医療紹介の中で。
「殺された赤ちゃんの組織を使って生き延びるなんて…!」と近親者@欧米人がひどい動揺を示していた。
これはまさに(彼らが脳死において言うところの)「時代錯誤な反応」だったりする?
脳死判断の実体を欧米人がふまえてくれるならば、「殺された成人の組織を使って生き延びるなんて…!」という反応はするのかもしれない。(…死後観が大幅に異なるのでそうとも言いきれないかもしれないが:日本人は死者の気持ちを考えすぎる上、それを自分が背負おうとする/欧米人は死者の行方は神にゆだねる)
ありえないもののありようを慮って泣く、それはかの国でも同じ。
●「生まれる前に殺された者」が得ていたであろう可能性を慮って、そこに抵抗感を感じて泣く欧米人。
●逆に日本では欧米ほど「殺された赤ちゃんの組織を使って生き延びる」ことには抵抗が少ないことが予想される。胎児に対する「人間・個人」観は薄い。なにより「中絶」に対する抵抗感が欧米より格段に少ない国。
●日本人は「生まれてから殺された者」が得ていたであろう可能性を慮って、そこに抵抗感を感じて泣く。
●欧米人は「生まれてから殺された者」のその後は神(もしくは不可知)のテリトリー、生者を優先する。
●欧米人は神(もしくは不可知)の力が個人をこの世に送り出すので「生まれる前に殺される」と、神(もしくは不可知)の意志が全うされずに絶たれたと思うのか。
●日本人は「生まれる前に殺される」ことは「この世に縁が無かった者」とみなす傾向がある。

どうなんだろうか。
「時代錯誤」とは、時代とは何か。
何をどう言おうとも、天につばすることにならないか。
「議論が全然尽くされぬままにあっさり脳死決定が受け入れられている」西洋、そこを日本は「西洋では議論が尽くされた上で普及しているのに:見習わなければ」とカンチガイしてたりしないか。
ずれまくってないか。

…あちらでは医者にたいする信用は高いらしい。
ゆえに、医者が提示する「脳死」もそれなりに受け入れやすいのではないかという推察。
日本では医者に対する信用度が低いのか。欧米に比べて。
「医者に脳死だと認定されたら死なのだ」。
日本よりはるかに「医者を信用する」人々だから、医者の判断に対して特に異論を申し立てる必要性がない?
「脳死と臓器移植の医療人類学」p.154
日本では人々が医師に対する信頼の欠如を表明しているが、これは、北米では見られないことである。
なぜ欧米では信用できるのか。
「社会契約」という感覚が基礎にあるかないかなのだろうか。
**の状態になったら「死者同然」とみなす、そういう社会契約?
波平恵美子著「日本人の死のかたち 伝統儀礼から靖国まで」p.49
ある患者が予想される余命の期間を告げられた時、それを告げた医師に向かって「失礼な」と叫んだことがあった。主治医にとっては真に心外な反応であったに違いないが、医師のインフォームド・コンセントを得るための説明は、当人にとってはもっと心外な内容であったろう。なぜなら、それがよりよい終末期医療の計画を立てるための医師の行為であったとしても、「生者」を「死者」に移行させうるのは、医療行為ではなく、死亡した人の家族や血縁者による死者儀礼をとおしてであると多くの人は考えているからである。
この「失礼な」のくだり。
これは内部(うちわ)の問題を外部の者(よそさま)が侵したゆえに生じた感覚?
もしかしたら。
日本ではまれで、西欧で普通な「家族医」。
家族ぐるみでかかりつけの医者を持っている状態が、日本ではあまりない、ゆえに医者が「他人」の状態のまま。
そのあたりなんぼか関わりはないだろうか。
家族ぐるみで長年なじんだかかりつけの医者が、「脳死」宣告をすると、上掲の「失礼」感は和らぐだろうか。

【生き埋めの恐怖】
もうひとつ。
土葬が多い西欧では、昔から死に際して「生きたまま埋葬される」恐怖が根強く息づいている。
![]() 生き埋めの恐怖の歴史 Buried Alive: The Terrifying History of Our Most Primal Fear Jan Bondeson (著) ハードカバー (2001/03) 書籍情報と書評:アマゾン 日 米 英 2001/06 Guardian The fright of your life |
「ヴァンパイアと屍体 ポール・バーバー著 工作舎 1991(原書1988) |
「脳死と臓器移植の医療人類学」 p.58
ヨーロッパでは、少なくとも一四世紀ごろから、生きたまま埋葬されることへの恐怖が見られたが、それは疫病やその他の伝染病の発生によってさらに強められた。一八世紀にはその恐怖がさらに広がり、医師も患者も当局も、「早まった埋葬」を防ぐために、新しいそして時にはとっぴな手段に頼った。【中略】また、間違いが起こらないように、埋葬するまえに体内の血を抜いたり、手足を切断したり、防腐処置を施したり、時には頭を切り落としたりすることを望む者もあった。
つまり。
「たしかに死んでいる」ことを成立させるために、「死ぬ」前に臓器を摘出して確実に「死なせてくれる」ことが、生き埋め恐怖の西欧的にはそれなりにOKだと…!?
正しいトドメ?
正しい死の宣告?
…脳死は彼らにとって、正しい死の作法の中におさまるものなのかもしれない。

さてもなぜ臓器移植、なぜ脳死。
実は。
医療や技術の発達は、臓器移植を求める患者を増やしている。減らしていない。
p.43
合衆国では、一九九九年の臓器待機患者は六万六〇〇〇人以上であったが、その多くが移植を受けられないで死亡している。【中略】合衆国でもカナダでも、待機患者は年々増え続けている。一つには、幼い子どもや中高年の待機患者の数が増え、さらに、以前は移植の対象にはならなかった重症者も待機リストに載せられるようになったからである。
この臓器不足は、技術の進歩とシートベルトその他の安全装置の普及によって自動車事故による死者の数が半減したために、ますます深刻になっている。しかし、(生体臓器移植も含めた)臓器の提供件数は、カナダでは一九八四年の二倍に増えているのである(1996)。合衆国では、一九八八年から一九九七年までの期間の増加率は五七%であり、一九九八年の臓器ドナーの数はそれまでの平均より約五五〇〇人増えている。このように、両国の臓器提供協力者の数は増えているにもかかわらず、待機者リストの患者数の増加が始終クローズアップされるために、その事実が覆い隠されているのである。

治療の難しい患者を、増やしている。
これは「高次脳機能障害」もそうだ。
従来の医療では助からなかった重い容態の患者が、医療の発展で「命は助かった」が「障害が残る」。
困難な治療。
そこに中絶胎児の肉を使うか、死にかけの人間の肉を使うか。
医療の限界が、倫理の限界を脅かしている。
面白いことに(と言っちゃまずいか?)アメリカの臓器提供者(脳死患者)は6割が銃で撃たれた:もしくは自分を撃った人。
銃だと臓器摘出に手頃な容態になるらしい。
それはそれとして、
銃の被害者が臓器提供者に多い
↓
臓器を摘出されるのは貧民層、臓器をもらうのは富裕層
そういう階級間の不均衡が、脳死決定制度と臓器移植に伴って生じる危惧が示されている。(「脳死と臓器移植の医療人類学」p.212)
階層間格差と言えば、アメリカ国内でも人種によってやや姿勢の差があるらしい。
「脳死と臓器移植の医療人類学」p.321
アフリカ系アメリカ人の間にも臓器提供に協力することに対する躊躇が見られるが、これには、タスケジー事件が与えた恐怖の影響があるように思われる。
[訳注] 黒人を用いて梅毒実験を行った事件。
タスケジー事件 、これは タスキーギ実験とも言う。
金森修著「負の生命論 認識という名の罪」 勁草書房(2003/01)が詳しく述べている。
「脳死と臓器移植の医療人類学」著者は、彼我の齟齬も指摘するが、日米間に文化差が無いとは言っていない。
文化差はある。
なかでも著者のこの指摘は面白く。
「脳死と臓器移植の医療人類学」p.323
生命を持たない機器に対する日本人の態度を知ることによって、日本の脳死論争に対する理解が深まるかもしれない。日本を訪れる外国人は、機械が生きていることに驚かされる。自動車、地下鉄、銀行のATM機、エスカレーターなどが、人々に話しかけ、様々な情報や指示を与えるのである。
【中略】
人々の日常生活には神道やアニミズム的考え方の影響が広く見られるが、このような事物に対する人々の態度には、その影響が色濃く表れている。自然、道具、その他あるゆる無生物に、魂が宿っているのである。マシューズ・ハマバタは、しばしば労働者たちが、機械にも自分自身の魂が乗り移っていると考えていることを指摘している。人間と機械は同じ世界に住んでおり、人間は機械と共に働くことによって、自己の社会的アイデンティティを再確認するのである。
【中略】
北米では無意識状態で機械につながれているのは屈辱的なことであるが、日本では、その受け止め方がかなり異なる。中身のない体だけになった人間に代わって機械が働き続けていると考える代わりに、一部の日本人は、機械と人間が協同して活動し、生命を有するハイブリッドを作り出していると考えるのである。
日米の、生き方の、死に方の、大きな差。
しかも上の理解は少なくとも私にはとてもよく理解できる。抵抗がない。異国人が書いたものだとしても。
陽をおてんとうさんと呼び、大阪人はあめちゃんを持ち歩き、誰かがみまかればその死者・亡き者の気持ちを慮る。
生死分かたず周囲におのれの思いを投影しながら生きる文化。
著者はこのアニミズム的文化が、特殊どころか逆に人類には普通なのであり、脳死に抵抗感がない西欧のほうが、異常であり特殊なのだと指摘する。
労作であり、啓発的な佳品。
この著書を迎えて、その後日本ではどのような議論、どのような展開があったのだろうか。
巻末の参考文献に挙がっている波平恵美子女史の著書が、1988一冊のみだったのが、少し意外と言うか、残念だった。
死ぬ前に脳死と宣告されてしまう時代。
おのれや誰かが脳死と言われるとき。
アメリカ人なみに「考えたこともなかった」と焦る前に読むべし。

しかしさぁ。
今回札大の蔵書から何冊か取り寄せて読んだのだが、いずれも読まれた形跡もない美麗な状態の本だったのでかなり悲しい。新刊でもないのに。
札大の学生、読めよ、もったいない。
へぇボタン:へぇ〜
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